時空の旅 年表
年表
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時代 | 年 | 出来事 | 概要・説明 | キーワード | 世界の出来事 |
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紀元前 | 稲作の普及によって 民族宗教が発達 | BC431頃 仏教成立 BC221秦が中国統一 BC4頃 キリスト生まれる |
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239 | 卑弥呼が魏に使いを送る | 67 中国に仏教伝来 280 晋が中国統一 |
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4世紀 | 各地の有力豪族が 古墳を造営 | 前方後円墳:円(円墳)と四角(方墳)を連結させたような形で、上から見ると鍵穴の形をしています。 代表的なものには、日本最大の仁徳天皇陵古墳があります。 巨大な古墳のほとんどは前方後円墳で、古墳時代を通して造られました。 | 箸墓古墳 | 375 ゲルマン民族大移動 395 ローマ帝国が東西に分裂 |
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4~7世紀の日本の国家形成に際してその中心となった中央組織。 地理的には大和国(現在の奈良県)が考えられます。 | 大和朝廷 | ||||
大和朝廷による統一 | 仁徳天皇(4世紀末から5世紀前半) | 仁徳天皇陵 (5世紀中頃) | |||
古墳時代 | 538 | 仏教伝来 | 日本書紀によると552年。 元興寺縁起などでは538年と2つの説があります。 百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、 仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりです。 | 仏教伝来 (552年説もあり) | |
587 | 丁未(ていび)の乱 | 仏教と神道の争い。蘇我馬子が物部守屋を殺害 | 丁未(ていび)の乱 | 589 隋が中国統一 | |
592 | 蘇我馬子、 崇峻天皇を殺害 | ||||
592 | 推古天皇即位 | 日本で最初の女性天皇。文献によると、天皇号を初めてもちいた君主であるという説があります。 即位の翌年に、おいの聖徳太子を摂政にして、天皇中心の政治をめざしました | 推古天皇 | ||
飛鳥時代 | 593 | 聖徳太子、 推古天皇の摂政に就任 | 飛鳥時代の政治家。593年、推古天皇の摂政となり、蘇我馬子と協力して、 天皇中心の政治を目指しました。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 「聖徳太子」は後世の尊称で、厩戸王と言われています。 | 聖徳太子 | |
603 | 冠位十二階制定 | 推古天皇によって聖徳太子が定めた位階制度です。 豪族を序列化し、姓や氏に関係なく優秀な人材を登用することを目的に制定されました。 位に応じて冠の色が十二色に分けられ、ひとめで地位高さがわかるようにされていました。 | 冠位十二階 | ||
604 | 17条憲法制定 | 推古天皇によって、聖徳太子が推古12(604)年に制定した日本で初めての憲法です。 現代の憲法とは異なり、貴族や官僚など政治に関わる人々に道徳や心がけを説いたものです。 | 十七条憲法 | 604 煬帝が即位(~618) | |
607 | 遣隋使を派遣(小野妹子) | 技術や制度を学ぶために隋(中国)に派遣した朝貢使のこと。 聖徳太子は607年、小野妹子を隋に派遣し対等の関係で国交を開こうとしました。 遣隋使によって、中国のすすんだ文化や技術が、日本に入ってくるようになりました。 | 遣隋使 | ||
法隆寺建立 | 618 隋が滅亡、唐が中国を統一 | ||||
630 | 遣唐使を派遣 (犬上御田鍬) | 中国「隋」が「唐」へかわると、進んだ文化を学ぼうと遣唐使が派遣されました。 それにより茶、薬、仏教の経典が伝えられ、国のしくみや法律も唐を手本にしてつくられていきました。 630年の 犬上御田鍬の派遣に始まり、894年に 菅原道真の提言によって廃止されました。 | 遣唐使 | 630 モハメッド、アラブを征服 | |
645 | 大化の改新 | 乙巳の変に始まる一連の国政改革。聖徳太子の亡きあと、勢力を強めた蘇我氏に危機感をもった 中大兄皇子が、中臣鎌足とともに天皇を中心とする中央集権国家の建設をめざし、 645年に蘇我氏をたおし、政治の改革に着手しました。 | 大化の改新 | ||
646 | 改新の詔 | 律令制(中央集権体制)を樹立するための基本方針を表明したものです。 ①公地公民制:豪族の私地私有民を認めない。 ②地方制度:新しい行政区画を採用。 ③班田収受法:戸籍・計帳を作り班田収授法をおこなう。 ④税制改革:祖や調など土地税を中心とした新しい税制を採用。 | 改新の詔 | ||
663 | 白村江の戦い (中大兄皇子) | 朝鮮半島の白村江で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争。 日本は兵を送りましたが、唐と新羅の連合軍に大敗。百済は滅びました。 以降、日本は侵攻を恐れ北九州に防人を置き、防備をはかりました。 | 白村江 (はくすきえ)の戦い | ||
670 | 庚午年籍制定 (天智天皇) | 天智天皇の命によってつくられた戸籍。氏姓の決定、班田収授のための基本台帳としてつくられました。 日本最古の戸籍といわれています。現存していませんが、 続日本記によると全国的な範囲で作成されたもので、永久に保存されるべきと規定されています。 | 庚午年籍 | ||
672 | 壬申の乱 (大海人皇子・大友皇子) | 天智天皇の死後、天智天皇の同母弟・大海人皇子と息子・大友皇子との間の皇位継承の争いで 日本古代史最大の内戦。 戦場となったのは、現在の奈良県、三重県、滋賀県、岐阜県、大阪府で2ヶ月以上も続きました。 最大の決戦「瀬田唐橋の決戦」に敗北した大友皇子が自害し、大海人皇子は天武天皇となります。 | 壬申の乱 | ||
673 | 天武天皇即位 | 大海人皇子 | 676 新羅が朝鮮半島を統一 | ||
683 | 富本銭鋳造 (天武天皇) | その重さや大きさが中国の唐の通貨、開元通宝とほぼ同一規格であることから、 開元通宝をモデルにした日本最古の貨幣という説が有力です。 | 富本銭 | ||
694 | 藤原京遷都 (持統天皇) | 天武天皇が都の造営を始め、その妻の持統天皇が完成させた都。 中国的な条坊制を採用したわが国最初の本格的都城です。 694年から710年に平城京へ遷都するまで、持統・文武・元明天皇3代の16年間にわたる都でした。 | 藤原京 | ||
701 | 大宝律令制定 (文武天皇) | 中国の律令をお手本にして701年に完成した、日本で初めて刑法と行政法と民法が揃った 本格的な律令です。刑法といえる「律」6巻と行政法や民法といえる「令」11巻の全17巻から 成り立っている法律です。 律は唐の律令を参考にしており、令は日本の実情に合わせた内容になっています。 | 大宝律令 | ||
708 | 和同開珎の鋳造 (元明天皇) | 唐の先進的な文化や制度を積極的に取り入れようと、 708年(和銅元年)に、唐の「開元通宝」をモデルに初めて公的に鋳造・発行したとされる銭貨です。 (奈良で発見された富本銭は和同開珎以前に鋳造されたものです。 出土例が少ないため今後の研究がまたれます) | 和同開珎 | ||
奈良時代 | 710 | 平城京遷都 (元明天皇) | 元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、 その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安という都をモデルに新しい大規模な都をつくりました。 | 平城京 | 712 唐の玄宗が即位 |
718 | 養老律令編纂 (元正天皇) | 藤原不比等らが大宝律令を一部改修して編纂した律・令各10巻の法典。 | 養老律令 | ||
723 | 三世一身の法制定 (元正天皇) | 奈良時代前期に発布された格(律令の修正法令)で、 墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令です。 | 三世一身法 | ||
741 | 国分寺・国分尼寺建立の詔 (聖武天皇) | 聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、 国分僧寺と国分尼寺に分かれています。国分寺・国分尼寺は、「各国に1つずつ設置する」という ルールが決められ、その建立は各国の国司の手に委ねられることになりました。 | 国分寺、 国分尼寺建立の詔 | ||
743 | 墾田永年私財法の制定 (聖武天皇) | 三世一身法を定めたが税制収入の問題を解決することができず、さらに開墾を奨励するために 墾田永年私財法を定めて、新しく開墾した土地を制限付きながら永久に所有することを認めました。 これにより公地公民制は崩れ、のちの荘園制へとつながっていきます。 | 墾田永年私財法 | ||
752 | 東大寺大仏開眼供養 (聖武天皇) 行基 | 新しくできた大仏に目を入れて魂を迎え入れる供養の法会。 聖武上皇・孝謙天皇の臨席のもとに盛大に行なわれました。 この時使用された遺品は正倉院に多く残されています。 | 東大寺大仏開眼供養 | 751 中国から製紙法が西方に伝わる | |
754 | 鑑真和上来日、 律宗を伝える | 多くの苦難の末、来日をはたし、戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。 これにより授戒を受けなければ僧侶になることができなくなり、 日本における僧侶の資格制度の基礎ができました。 | 鑑真和上 | ||
平安時代 | 784 | 長岡京遷都(桓武天皇) 藤原種継 | 桓武天皇の命によって奈良の平城京から遷された都。東西4.3km、南北5.3kmと平城京、平安京に 匹敵する広大なもので、向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部の地域に及んでいます。 しかしながら、792年の大洪水や桓武天皇の弟である早良親王の死、その怨霊などから、 794年に平安京へ都が遷されました。 | 長岡京 | |
794 | 平安京遷都(桓武天皇) | 桓武天皇によって長岡京から山背国(現在の京都市)に都が遷され、永遠に平和で安らかであるようにとの 願いを込め「平安京」と名付けられました。平安京は、姿を変えながら、1869年に東京へ遷都されるまで 千年以上の間、天皇や貴族が住む日本の首都として、政治・文化の中心的役割を果たしました。 | 平安京 | ||
797 | 坂上田村麻呂、 征夷大将軍に就任 | 平安時代のはじめのころの武官。 793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で功績を上げた。 その後、桓武天皇から征夷大将軍に任命され、敵対する蝦夷を討ちました。 佛教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名です。 | 坂上田村麻呂 | ||
805 | 最澄天台宗を始める | 平安時代の僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。比叡山延暦寺 | 最澄 | ||
806 | 空海真言宗を始める | 平安時代初期の僧。弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖です。高野山金剛峰寺 | 空海 | ||
894 | 菅原道真、 遣唐使中止を進言 (宇多天皇) | 平安時代になると、それまで唐から持ち込んだ文化と日本の文化が融合した日本独自の文化が 芽生えます(国風文化)。渡航の危険性と文化受入れの必要性が感じられなくなったため、 廃止の提案がされ、以降、唐への派遣はなくなりました。 | 遣唐使の廃止 | ||
901 | 菅原道真、大宰府に左遷 | 宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めました。 しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没しました。 その頃、都で疫病や異常気象がおこり、醍醐天皇はこれを道真の祟りであると恐れ、 大宰府にあった道真の墓所に社殿を造営します。これが大宰府天満宮です。 室町時代頃には道真が学問に通じていたことこから学問の神様として信仰されるようになりました。 | 菅原道真 | 907 唐滅亡、五代十国成立 918 朝鮮に高麗が起こる |
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935 | 平将門の乱 (承平・天慶の乱) | 平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称です。 この二つの反乱は武士が中心となって起きた初めての反乱です。 国家の力の衰えと、平氏や源氏など武士が台頭してきたことをあらわしています。 | 承平・天慶の乱 | 960 宋(北宋)成立 | |
939 | 藤原純友の乱 (承平・天慶の乱) | ||||
11世紀頃 | 「源氏物語」など かな物語が流行 | ||||
1051 | 前九年の役 | 平安時代後期に、陸奥の国で起こった豪族による反乱を、 朝廷から派遣された源頼義・源義家親子が平定した戦いです。 | 前九年の役 | ||
1083 | 後三年の役 | 平安時代の後期、前九年の役に続いて東北地方で起こった戦乱。前九年の役の後、東北地方では 清原氏が大きな力をもっていましたが、兄弟の間で内紛が生じ、陸奥守であった源義家が介入し 乱をしずめました。前九年の役と後三年の役で戦功を上げた源氏は、関東、東北地方での 地盤を固めるとともに、朝廷内での武士の勢力拡大をはかる役割を果たしました。 | 後三年の役 | 1099 十字軍がエルサレム王国を建てる | |
1156 | 保元の乱 | 皇位継承問題などの朝廷内の内紛から起こったもので、後白河天皇と崇徳上皇の分裂に、 源氏と平氏の武力が加わった政変です。朝廷での内部抗争を解決するために、 平清盛や源義朝などといった武士の力を借りました。 そのため、この乱以降、武士の存在感が増すことになります。 | 保元の乱 | 1142 紹興の和議(宋と金の和議) 1150頃 カンボジアでアンコール・ワット建設 |
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1159 | 平治の乱 | 天皇と上皇による院政の実権をめぐる争いから生じた戦乱です。保元の乱の後、 後白河上皇の近臣が対立したことをきっかけに、平治の乱が起こりました。 この戦乱では源氏と平氏が敵対し、平清盛 を中心とする平氏が勝利しました。 勝利した平氏の勢力は拡大し、平清盛は武士として初めて太政大臣に任命されました。 | 平治の乱 | ||
1167 | 大和田の泊修築 (日宋貿易) | 兵庫津は、8世紀の初め頃に大輪田泊と呼ばれ、 近畿から中国・九州へ向かう航路の船泊りとして築かれました。804年には、第4回遣唐使として 最澄、空海が船出。平安時代の終わりごろには、平清盛が日宋貿易に大輪田泊を利用し、 大きな港に大修築し、重要な国際貿易港になります。 | 大和田泊 | ||
鎌倉時代 | 1192 | 源頼朝、 征夷大将軍に就任 | 源頼朝が開いた最初の武家政権。1180年から侍所・問注所などの主要機関を設置し、 1185年に守護・地頭を設置する権利を朝廷より認められ。1192年に頼朝が征夷大将軍に任命されたことで 幕府の体制が固められました。源氏の将軍が途絶えると北条氏の執権政治が行われるようになりました。 鎌倉幕府は、1333年まで約150年間続きました。 | 鎌倉幕府 | 1187 エルサレム王国滅亡 1202 十字軍がラテン帝国建設 |
1232 | 御成敗式目制定 (北条泰時) | 三代執権北条泰時によって制令された武家政権のための法令。 室町幕府の「建武式目」をはじめ、戦国時代、江戸時代を通じて武家の法の基本となりました。 | 御成敗式目 | 1206 チンギス・ハン即位 | |
1274 | 文永の役 (フビライハン) | 北条時宗が執権であった1274年、元(蒙古=モンゴル)の皇帝・フビライハンからの国書に返答せず、 元への服属を拒否した日本に、軍を襲来させました。蒙古襲来ともいわれています。 幕府軍は、苦戦を強いられましたが、暴風があり、元と高麗の軍を撃退することができました。 | 文永の役 | 1261 東ローマ帝国が再興 1271 フビライ・ハンが国号を元と称する |
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1297 | 永仁の徳政令 | 第9代執権の北条貞時の時代、鎌倉幕府が借金で苦しむ御家人たちを救うために出した法令のこと。 永仁の徳政令は、幕府の基盤となる御家人たちの困窮と、 大地震による鎌倉幕府の権威失墜を背景に出されました。が、金融業者による「貸し渋り」が起こり、 御家人たちはかえって困窮することとなり、徳政令は失敗におわりました | 永仁の徳政令 | 1299 オスマン・トルコ帝国の建国 マルコ・ポーロ「東方見聞録」なる |
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1333 | 鎌倉幕府滅亡 | 1333年、足利尊氏、新田義貞らによって幕府と北条高時ら北条氏一族は滅亡しました。 元寇は防衛戦争であったため、御家人たちに領土などの報恩を与えることができず、 防衛のための費用などの重なりなど財政の圧迫と御家人たちの不満などが背景にあります。 | 鎌倉幕府滅亡 | 1313 ドイツで火薬が発明される | |
1334 | 建武の新政 | 後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後、武家による政治を倒し、天皇による親政を復活させたため、 建武の中興とも呼ばれています。天皇親政を復活しようとしましたが、 公家中心の政策が武家の不満を招き、足利尊氏の反乱により、わずか3年足らずで崩壊しました。 | 建武の新政 | ||
室町時代 | 1336 | 建武式目制定 | 足利尊氏が室町幕府の方針を示したもの。 1336年、足利尊氏は後醍醐天皇を廃し、光明天皇を擁立。 同年に当面の政治方針を明らかにした建武式目を制定しました。 | 建武式目 | |
1336 | 南北朝時代へ | 鎌倉時代と室町時代に挟まれる時代で、広義では室町時代に含まれます。 北朝と南朝に天皇家が分かれ、両家が正統性を提唱しながら朝廷を開いていく状態が60年も続きました。 後醍醐天皇吉野へ | 南北朝時代 | ||
1338 | 足利尊氏、 征夷大将軍に就任 | 1338年、北朝より征夷大将軍に任じられました。 | 足利尊氏征夷大将軍に | 1339 英仏間に百年戦争はじまる 1347 ヨーロッパにペストが流行(~1350) |
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1392 | 足利義光、南北朝統一 | 三代将軍足利義光は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、 両者の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。 | 南北朝統一 | 1392 高麗滅亡、李氏朝鮮成立 | |
1397 | 足利義光、 鹿苑寺金閣造営 | 三代将軍足利義満が西園寺からこの地を譲り受け、自身や夫人らの御所北山殿を造営。 この地を政治・外交の中心とするとともに、北山文化を花開かせました。鹿苑寺金閣 | 北山文化 | 1403 朝鮮で活字ができる | |
1467 | 応仁の乱はじまる | (通常は単に「応仁の乱」という)は、 応仁元(1467)年から文明9(1477)年まで11年にわたって続いた戦乱です。 | 応仁・文明の乱 | 1453 オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼす | |
1485 | 山城の国一揆 | 南山城の国人・地侍が核となって組織した一揆。畠山政長と畠山義就の戦いに抗議したのを機に、 両軍の山城撤退、寺社本所領の還付、新関の停止を三大要求項目として結成されました。 8年間にわたり自治をおこないました。 | 山城国一揆 | 1492 コロンブスが新大陸を発見 1498 バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見 |
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1543 | 鉄砲伝来 | 種子島に漂着したポルトガル人は時の種子島島主時尭に鉄砲を伝えました。強力な武器として 注目された鉄砲はやがて、堺などでさかんに作られるようになり、全国に広まっていきました。 戦に鉄砲が使われるようになると、戦の方法が今までと変わり、勝敗が早く決まるようになり、 全国統一が急速に進んだといわれています。 | 鉄砲伝来 | 1543 コペルニクスが地動説を唱える | |
1549 | キリスト教伝来 | 鉄砲が日本にもたらされた後、次々と来日した 宣教師 (バテレン)の布教によって、 キリスト教が伝来します。最初に日本にやってきたのは、 スペイン人 の フランシスコ=ザビエル です。 アレクサンドロ=ヴァリニャーニはキリスト教だけでなく、 学校の設立、活字印刷機の伝達などをおこないました。 | キリスト教伝来 | ||
1560 | 桶狭間の戦い | 織田信長の運命をかえた戦い。 駿河の戦国大名、今川義元の2万5000もの大軍を2000騎の織田軍が桶狭間を奇襲し勝利しました。 | 桶狭間の戦い | ||
1568 | 姉川の戦い | 近江国(現在の滋賀県)の姉川流域で起こった、織田信長・徳川家康の連合軍と、 浅井長政・朝倉義景の連合軍による合戦のことです。足利義明入京 | 姉川の戦い | ||
1571 | 比叡山焼き討ち | 滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。 織田信長は敵対していた朝倉・浅井軍をかくまった 延暦寺の僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われています。 | 比叡山焼き討ち | ||
1573 | 室町幕府滅亡 | 足利義昭は織田信長によって京都を追放されてしまいます。 | 室町幕府滅亡 | ||
安土桃山 時代 | 1575 | 長篠の合戦 | 三河国長篠城をめぐって、 織田信長・徳川家康連合軍3万8000 と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。 この戦いで信長は火縄銃を使った新しい戦法を生み出しました。 | 長篠の合戦 | |
1576 | 安土城築城 | 織田信長が名築城家丹羽長秀に命じ3年の歳月を掛けて完成した我国最初の本格的天守閣を有する 近世城郭です。しかし築城からわずか6年で焼けてしまったため、数多くの謎が残っています。 | 安土城築城 | ||
1582 | 本能寺の変 | 全国統一目前であった織田信長を、家臣であった明智光秀が謀反をおこし、 信長を自害に追い込んだ事件です。 | 本能寺の変 | ||
山崎の合戦 | 本能寺の変のあと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山城国山崎 (京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を討った戦い。 | 山崎の合戦 | |||
太閤検地 | 豊臣秀吉が日本全土で行なった検地。天正の石直し、文禄の検地ともいいます。 大名の手によって検地が行われ、土地の権利関係を整理するとともに、 直接耕作者(農民)を検地帳に登録して年貢の負担者としました。 また、初めて全国統一の検地竿、升が採用されることになりました。 | 太閤検地 | |||
1583 | 大阪城築城 | 豊臣秀吉秀吉は石山本願寺跡に大坂城を築城。 大天守は外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いた。 | 大阪城築城 | ||
1587 | バテレン追放令 | 豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と 南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語の「padre=神父」を指す言葉で、 主にキリスト教宣教師に国外退去を命じるものです。 | バテレン追放令 | ||
1592 | 文禄の役 | 豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。 約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出しましたが、 明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦しました。 | 文禄の役 | ||
1597 | 慶長の役 | 豊臣秀吉が文祿の役で明と和議を約した後に、明使の渡来と朝鮮王子の来朝を求めたが、 明使のもたらした表文の無礼を怒って、ふたたび朝鮮に出兵した戦役。 秀吉の死を契機に、朝鮮から撤兵しました。 | 慶長の役 | 1596 オランダが東洋に殖民を始める | |
1600 | 関ケ原の戦い | 徳川家康が率いる東軍と、石田三成の西軍、合わせて15万人以上の軍勢が戦いました。 豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、 幕藩体制確立への道筋が開かれました。 | 関ケ原の戦い | 1600 イギリスが東インド会社を設立 | |
江戸時代 | 1603 | 徳川家康、 征夷大将軍に就任 | 関ケ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。 | 徳川家康 征夷大将軍に就任 | |
1612 | キリスト教禁教令 | 第2代将軍徳川秀忠が、幕府の直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、 翌年に全国へ発した法令。したがわない者や宣教師を国外に追放しました。 1637年におこった島原・天草一揆の後、キリスト教のとりしまりは、さらに強められます。 | キリスト教禁止令 | ||
1614 | 大坂冬の陣 | 大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。 慶長19年の大坂冬の陣と、慶長20年の大坂夏の陣から成ります。 この戦いで、豊臣家と徳川家康が戦い、徳川家康が勝利したことで、豊臣家は滅亡しました。 | 大坂の陣 | ||
1615 | 大坂夏の陣 | 1618 三十年戦争始まる | |||
武家諸法度制定 | 江戸幕府が諸大名を統制するために制定した法令。 元和元年(1615)徳川家康の命により2代将軍秀忠のときに発布された13箇条が最初で、 その後必要に応じて改訂されました。 | 武家諸法度 | |||
禁中並公家諸法度制定 | 江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた制定法。 禁中とは御所、皇居のことを表しますが、転じて皇室を指しています。 金地院崇伝により起草され、幕末まで改定されることはありませんでした。 | 禁中並公家諸法度 | |||
1624 | スペイン船来航禁止 | 新教国のオランダとイギリスが、カトリック国のポルトガル・スペイン が布教を口実に 植民地化を画策していると幕府に告げたこともあり、スペイン船来航を禁止し、国交を断ちました。 | スペイン船来航禁止 | 1620 イギリスの清教徒がメイフラワー号で北米に移住 | |
1635 | 武家諸法度制定 (参勤交代制度化) | 江戸時代において各藩の主である大名や交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。 幕藩体制と大名統制のカギとなるもので、各藩は参勤交代によって巨額の費用と人手が必要となり、 結果的に徳川幕府の天下が長く続きました。 | 参勤交代制度 | ||
1639 | ポルトガル船来航禁止 | スペインに続き、ポルトガルからの来航も禁止。国交を遮断しました。 | ポルトガル船来航禁止 | ||
1641 | オランダ商館を出島(長崎)に移す | ポルトガル人によるキリスト教の布教を防ぐため、また貿易を厳しく監視するために、 徳川幕府は岬の突端に人工の島を築き、そこにポルトガル人を収容しました。 安政6年(1859)、オランダ商館が閉鎖される218年間に渡り、 わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。 | オランダ商館を 出島(長崎)に移す | 1642 イギリスでピューリタン革命始まる | |
1716 | 享保の改革(徳川吉宗) | 江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革であり、 寛政の改革や天保の改革に並び立つ三大改革です。年貢をふやし米価を調整するなどして 幕府財政の再建をめざし、 また行政の諸改革を推進しました。 | 享保の改革 | ||
17~18C | 元禄文化が隆盛 | 1760 イギリスの産業革命(~1840) | |||
1774 | 解体新書(杉田玄白) | 杉田玄白、前野良沢らが中心となり、ドイツ人医師クルムスの解剖書のオランダ語訳 『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、安永3年(1774)に出版したもの。 | 解体新書 | 1775 アメリカ独立戦争 1776 アメリカ独立宣言 |
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1837 | 大塩平八郎の乱 | 江戸時代の天保8年(1837 年)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)と その門人らが起こした江戸幕府に対する反乱。天保のききんで苦しむ人々を救おうと、たびたび奉行所へ 訴えたが取り上げられず、農民300人を集めて「救民」の旗を立て、反乱を起こしました。 乱は鎮圧されますが、その影響は全国におよびます。 | 大塩平八郎の乱 | 1835 アメリカのモールスが電信機を発明 | |
1838 | 適塾開校 | 天保9(1838)年に蘭学者・医者として著名な緒方洪庵が大坂・瓦町に開いた蘭学の私塾です。 正式には適々斎塾という名称で、適塾や適々塾とも呼ばれています。 大村益次郎や福沢諭吉など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、 現在の大阪大学の源流の一つとなりました。 | 適塾 | 1840 清・イギリス間にアヘン戦争 1842 南京条約(香港島をイギリスに割譲) |
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1853 | ペリー来航 | アメリカ合衆国の軍人マシュー・ペリー率いる艦隊が、 江戸湾の入口にあたる浦賀沖(現・横須賀市)に現れ、日本に開国を要求した事件。 | ペリー来航 | 1853 クリミヤ戦争 | |
1854 | 日米和親条約 | 日本はアメリカ側の圧力に屈して翌1854年、再来したペリーを通じて全12箇条からなる 「日米和親条約」を結び、「鎖国状態」は終わりを告げました。 | 日米和親条約 | ||
1858 | 日米修好通商条約 | 日本がアメリカ総領事ハリスと締結した条約。幕府は自由貿易を認めて本格的な開港に踏みきり、 箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事の駐在、自由貿易、信教の自由などを約束しました。 また、領事裁判権を認め、関税自主権を喪失して片務的最恵国待遇を与えるなどの不平等条約でした。 | 日米修好通商条約 | ||
1858 | 安政の大獄はじまる | 幕末の大老 井伊直弼が、1858年から1859年にかけておこなった政治的な弾圧事件。 尊王攘夷を主張する長州藩士の吉田松陰や福井藩士の橋本左内などを死刑にした。 | 安政の大獄 | ||
1860 | 桜田門外の変 | 桜田門外の変:江戸城桜田門外で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、 大老井伊直弼を暗殺しました. | 桜田門外の変 | 1860 英・仏連合軍が北京を占領 | |
1862 | 坂下門外の変 | 江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主) を襲撃し、負傷させた事件。 | 坂下門外の変 | 1861 アメリカ南北戦争 | |
1862 | 生麦事件 | 武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、 薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、 供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。 | 生麦事件 | ||
1863 | 下関事件 | 長州藩が馬関海峡(現関門海峡)を航行する米仏蘭商船を砲撃した事件。 | 下関事件 | 1863 アメリカ大統領リンカーンが黒人奴隷解放宣言 | |
薩英戦争 | 薩摩藩とグレートブリテン及びアイルランド連合王国 の間で戦われた戦闘。 生麦事件に対して、イギリスは、薩摩藩に対して犯人の処刑と賠償金25000ポンドの 支払いを要求しました。薩摩藩はこれを拒否したので、 翌年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島に来航し、7月2日に薩英戦争が起こりました。 | 薩英戦争 | |||
1866 | 薩長同盟 | 江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日( 1866年3月7日)に 小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。 仲介役として坂本龍馬が尽力しました。 | 薩長同盟 | ||
1867 | 大政奉還 | 薩摩藩、長州藩、公家などが、幕府を武力で倒そうとする動きが高まるなかで、 前土佐藩主 山内豊信が、徳川慶喜に対して政権を朝廷に返上することをすすめました。 慶喜はこれを受け入れ、政権を朝廷に返上しました。 | 大政奉還 | ||
王政復古の大号令 | 天皇の中心の新政府樹立を示した宣言。 小御所会議とあわせて、王政復古政変もしくは王政復古クーデターともいいます。 | 王政復古の大号令 | |||
明治 | 1868 | 戊辰戦争 (鳥羽伏見の戦い) | 1868年から翌年にかけて行われた旧幕府軍と新政府軍の戦争で、 「鳥羽・伏見の戦いから「箱館戦争(五稜郭の戦い)」まで、日本各地で行われた一連の戦い。 この戦いで勝利した新政府軍は、倒幕を主導した薩摩藩と長州藩を中心に動いていくことになりました。 | 戊辰戦争 | |
五箇条の御誓文 | 明治新政府が発布した、新たな政治の基本方針。 西洋の文明を取り入れ、天皇中心の近代的な国として進んでいこうという決意が示されました。 | 五箇条の御誓文 | |||
1869 | 東京遷都 | 大木喬任、江藤新平の建言により1868年9月3日(慶応4年7月17日)遷都を決定、 天皇東幸の詔を発し、江戸を東京と改めました。 | 東京遷都 | ||
1869 | 版籍奉還 | 版籍奉還:明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地と人民を朝廷に返還した政治改革。 | 版籍奉還 | ||
1871 | 廃藩置県 | 全国の藩を廃して県を置き、中央集権的統一国家を樹立した政治変革。 版籍奉還後、政府は中央集権化政策を積極的に推進しました。 | 廃藩置県 | ||
岩倉具視海外渡航 (視察団) | 明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、 日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団。 岩倉具視を全権とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。 | 岩倉使節団 | |||
1874 | 民選議員設立建白書提出 (板垣退助) | 板垣退助等8名が政府に提出した国会開設の建白書です。 | 民選議員設立 建白書提出 | ||
1876 | 廃刀令 | 廃刀令:大礼服着用者・軍人・警察官にのみ帯刀を認め、士族などの帯刀を禁止した法令のこと。 | 廃刀令 | ||
1877 | 西南戦争 | 西郷隆盛率いる鹿児島士族が起こした内乱。 熊本はほぼ全域が戦場となり、熊本城の炎上、田原坂の激闘がよく知られています。 | 西南戦争 | 1877 イギリスがインド帝国をつくる | |
1878 | 大阪商法会議所設立 (会頭・五代友厚) | 五代友厚らによって大阪商法会議所設立、五代が初代会頭に就任。 | 大阪商法会議所設立 | 1879 エジソンが白熱電灯を発明 | |
1881 | 国会開設の詔 | 明治天皇が出した詔勅。 1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、 欽定憲法を定めることなどを表明した。 | 国会開設の詔 | ||
1884 | 秩父事件 | 悪徳金貸や政府の悪政を批判し、貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起。 | 秩父事件 | 1884 清仏戦争(~1885) | |
1885 | 内閣制度創設 (初代内閣総理大臣 伊藤博文) | 太政官制が廃止され、内閣制度が創設されます。初代の内閣総理大臣は、伊藤博文が任命されています。 | 内閣制度創設 | ||
1889 | 大日本帝国憲法発布 | この憲法のもとでは、天皇が国の元首として統治権を総攬。 法律の範囲内で、国民は、居住・移転や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、 信書の秘密、私有財産の保護などが認められました。 | 大日本帝国憲法発布 | ||
1894 | 日英通商航海条約締結 | 領事裁判権と協定関税率を定めた江戸時代の日英修好通商条約(1858)を改訂したもの。 この条約の調印により日本は維新以来最大の懸案であった条約改正に成功し、 法権を回復し他のアメリカやヨーロッパ諸国も、この条約に準じた法権回復条約に調印しました。 | 日英通商航海条約締結 | ||
日清戦争 | 1894年(明治27年)7月25日から1895年( 明治28年)4月17日にかけて 日本と清国の間で行われた戦争。 | 日清戦争 | 1896 第一回近代オリンピック競技 | ||
1904 | 日露戦争 | 1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて 大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争 | 日露戦争 | ||
1905 | ポーツマス条約締結 | アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、 日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。 | ポーツマス条約 | ||
1911 | 日米通商航海条約締結 (関税自主権回復) | これにより関税自主権が完全に回復しました。 また、アメリカが日本移民の入国・旅行・居住について差別的な法律を制定する規定は撤廃されました。 | 日米通商航海条約 | ||
辛亥革命(孫文) | 1911年から1912年にかけて、清で発生した共和革命。 | 辛亥革命 | 1912 中華民国設立 | ||
1914 | 第一次世界大戦勃発 | 1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、 連合国対中央同盟国の戦闘により繰り広げられた世界大戦。 | 第一次世界大戦 | ||
1923 | 関東大震災 | 相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震。人口密度の高い地域と、火災により観測史上最大規模の 死者14万人、現在の貨幣価値に換算して約320兆円という甚大な被害をもたらしました。 この震災を忘れないために毎年9月1日を「防災の日」と定められました。 | 関東大震災 | 1920 国際連盟、成立 | |
1929 | 世界恐慌 | 1930年代にアメリカを皮切りに世界的に起こった深刻な経済恐慌のこと。 | 世界大恐慌 | ||
1932 | 満州国建国宣言 | 満州国. 1931年に満州事変を起こした日本の関東軍が中心となり、翌年、中国の東北部に建国されました。 | 満州国建国 | ||
1933 | 国際連盟脱退 | 中国は、満州事変は日本の侵略であるとして国際連盟に訴えた。国際連盟はリットン調査団を派遣。 調査報告書により国際連盟は日本に対し、満州から兵隊を引き上げることや満州国という国自体が 存在しないとして承認の取り消しを勧告。これを不服とした日本は、国際連盟を脱退しました。 | 国際連盟脱退 | ||
1937 | 日中戦争勃発 (盧溝橋事件) | 盧溝橋事件を機に勃発した日本と中国の全面的な戦争。 1941年12月には太平洋戦争に拡大し、第二次世界大戦の一部となりました。 | 日中戦争 | ||
1939 | 第二次世界大戦勃発 | 1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、 1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争。 | 第二次世界大戦 | ||
1941 | 太平洋戦争勃発 | 第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国を中心とする枢軸国と、 連合国(イギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダ、中華民国など)との 太平洋を中心とした地域における戦争に対する、連合国側からの呼称。 | 太平洋戦争勃発 | ||
1945 | 敗戦 | ||||
財閥解体、 婦人参政権の実現 |