時空の旅 (秀吉の時代)― 秀吉の「首都創造」プロジェクト
戦国~江戸時代
日本史を旅する⑨
大阪(秀吉の時代)― 秀吉の「首都創造」プロジェクト
飛鳥、奈良、京都、山崎(天王山)から大阪。
日本社会の形成過程を追って、大阪に向かう。
秀吉の全国統一の夢を追うように、山崎から高槻、万博公園付近を通り市街地へ。「キタ」の繁華街からお初天神近く、さらには淀屋橋を左折し、北浜を抜ける。
ビル街が切れるころ、目の前にはグリーンの大阪城がそびえ立っている。
大阪に根づく精神の象徴
つゆとおち
つゆときへにしわかみかな
なにわの事もゆめの又ゆめ
1598年8月。63歳の生涯を閉じた秀吉の、これが辞世の句となった。
聚楽第、方広寺、伏見城などの建築を手がけ、一方では日本的「なりあがり」の象徴だった秀吉にとっても、大坂城完成の喜びだけは格別のものだったらしい。
高層ビルが立ち並ぶなか、今の大阪城の巨大さはもはや突出したものではない。だが大阪の人々にとって、この城がもつ、独特の存在感は変わらない。
五段最上層に唐破風、下の各層に千鳥破風を置き、上層壁面に鶴と虎を飾った天守閣。秀吉以来、大阪の町に根づく精神の象徴は、間違いなくこの建物だ。 城内に入ってみよう。
まず左手に、秀吉、秀頼、秀長を祭る豊国(ほうこく)神社。橋の正面にある桜門をぬけると、巨大な二つの石を含んだ石垣がある。巨石の一つは城内一の蛸(たこ)石(いし)。もう一つが振袖(ふりそで)石(いし)で城内第3位の大きさだ。表面積は36畳と32畳。備前や瀬戸内から運ばれたものだというが、命じられた方はさぞかし大変だったろう。
やや進み、天守閣下の広場には、右手にミライザ大阪城.(旧大阪市立博物館)、正面には大阪万博のタイムカプセル埋蔵地がある。
ミライザ大阪城は、もと陸軍第4師団司令部。何となくドイツの宮殿をイメージさせる少しいかめしい建物だ。
一方のタイムカプセル。万博当時の文化を示す2千点あまりの品物が入れてあり、一つを毎世紀初めに、もう一つを5千年後にオープンさせる計画だ。
大阪万博から、はや20年近く。もう「万博を知らない子供たち」が大学生や社会人になっている。
金蔵を右に見ながら天守閣に入ると、中は秀吉を中心にした歴史展示場になっている。よき家庭人(?)だった秀吉が、秀頼に書いた手紙も、ここに保存されている。
日本経済の一つの原点
天守閣最上階からは、多聞櫓、二番櫓、六番櫓、大手門などの城内配置はもちろん、大阪市街が一望のもとに見渡せる。
年ごとにアカ抜けていく町並みを見ながら、秀吉による築城が、とりも直さず大坂の町づくりでもあったことを思い出す。
それはいってみれば、城を中心に大坂を政治経済の中心、日本の首都として位置づける「首都創造」プロジェクトだったのだ。
当時、大坂は4年間におよぶ信長と本願寺の争いのあとで、廃墟に近い状態だったという。
秀吉は城の建設と並行して、天満川、東西横堀川などを掘り、その土砂で土地を埋めた。縦横に川や堀をめぐらし、淀川を改修して京都方面への水路を通した。瀬戸内や伊勢、和歌山への交通基盤も整えた。
一方、秀吉は都市づくりのソフトウェアにも目を向けた。例えば堺や京都の豪商たちをこの町に「誘致」し、住まわせたりもしたようだ。
これらの結果、もともと交通の要地だった大坂には、みるみるうちに人とモノが集まり、全国から商人たちが住むようになった。その勢いは、「秀吉を喜ばそうとして人々が急いで邸を建てた」ため、城の着工から数十日で「大坂には七千もの家屋が建ち並んだ」ほどだという。
大坂には全国の商人が集い、新しい地で新しい商いをしようとする人たちを中心に町ができた。
それは全国が一つの流通の場になることでもあった。
短期間で政治の中心がこの町から去っても、商都としての伝統は、その後も脈々と受け継がれていく。
日本経済を支えてきた多くの企業がこの町から生れ、あるいは育っていったことを考えると、経済大国の一つの原点が秀吉期の大坂にあったと見ることもできるのだ。
三代目の城は市民の寄附で
さて、ところで今の大阪城は秀吉が建てたものではない。
大坂夏の陣で焼失した大坂城は、石垣を含め、すっかりこの地上から消え去ってしまった。
徳川氏が再興した二代目の城も、わずか39年で落雷に焼け、現在の天守閣は「夏の陣屏風」をモデルに、昭和6年復元したものだ。
城のない大阪というのはどうもピンとこないが、江戸の200年と明治、大正、昭和のはじめまで、大阪には天守閣がなかったことになる。
ところで驚くべきことに、この3度目の復興は、すべて市民からの寄附によって実現したという。しかも、天守閣の建設費48万円に対して、何と150万円が集まったという。
残りの100万円余りは、大阪城公園と博物館(第四師団司令部)に向けられたわけだが、昭和6年といえば1931年、世界恐慌のまっただ中である。
「首都創建」時に想いをはせながら、金を出しあって町のシンボルを復興し、景気の回復を図る。単なる商いを超えたこの精神は、70年万博や「21世紀計画」などにも語り継がれている。