時空の旅 (江戸時代)―西鶴・近松・諭吉を生んだ街

戦国~江戸時代

日本史を旅する⑩

(江戸時代)―西鶴・近松・諭吉を生んだ街

 飛鳥、そして奈良。平安から室町へ、4つの時代を巡った京都。さらに戦国の山崎から大阪城を越えて、一本の道が延びていく。今回は、大阪市街に近世の面影と近代への息吹を探ろう。

船場にみる町人パワー

 大阪城を出て、都市公園のような難波宮跡を横目に、船場方面へ。この船場や梅田(埋め田)といった地名は、いかにもかつて地面のほとんどが水面下にあった大阪らしい。

 ここ船場は、元禄文学の旗手・井原西鶴を生んだ街。幕政の安定期にあたる17世紀後半から18世紀初頭にかけて、台頭する町人パワーを表わすように、上方で、元禄文化が花開いた。

 「士農工商の外、出家神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせ金銀を溜(たむ)べし。是、二親の外に命の親なり」

 町人の立身出世を描いた『日本永代蔵』の一節だ。

 現実を肯定し、人間の本能や欲望を描いた西鶴文学のなかでも、特にこの一節は、そんな時代の風と、西鶴の大阪人らしさをよく表している。

 さて、この船場あたりは、一般に思われている大阪のイメージとは違い、道路が碁盤の目のように整備されている。前回ご紹介した、秀吉の町づくりの名残りなのだろう。

 その東西の道は、今でも「通り」、南北は「筋」と呼ばれている。

 そのうちの一つ、おもちゃ屋さんが軒をならべる松屋町筋を、日本橋(にっぽんばし)、道頓堀方面へ向う。

 電気街や黒門市場、家具、履物の問屋街など、大阪ならではの街なみが広がる日本橋。江戸時代に数軒の商人が開いた市場に端を発する黒門市場は、今では、200軒近い店がひしめく、ミナミの台所だ。その高速道路を隔てた向い側に、昭和59年オープンの国立文楽劇場がある。

17世紀からの繁華街

 文楽劇場から道頓堀にかけての一帯は、元禄時代以来の繁華街。明治維新まで刑場や火葬場だった千日前・法善寺界隈とは対照的に、道頓堀の南岸には1620年代から、芝居や遊所の設置が認められていた。

 道頓、道トが南堀川(道頓堀川)を開いた10年後には、一大繁華街への変身が始まっていたわけだ。

 この道頓堀には、現在も、角座、中座、浪花座、松竹座などの演劇場や映画館が建ち並んでいる。若者に人気の吉本興業・二丁目劇場も、戎橋のすぐそばだ。「カニ道楽」などの飲食店などともあわせ、大阪人気質あふれる街は、現代にも実に活き活きと伝えられている。

 さて、元禄時代、この街にゆかりの人はといえば、何といっても近松門左衛門の名があげられるだろう。

 その、代表作品が、お初、徳兵衛の心中を取り扱った『曽根崎心中』だった。

 1703(元禄16)年、4月。うら寂しい埋め田(梅田)の鎮守の森で、一件の心中事件が起きた。曽根崎の遊女・お初が、病死した恋人の徳兵衛のあとを追って、今の「お初天神」境内で死んだというものだ。

 この二人の仲をとりもったのは近松の知人で、お初の出身地・八尾教興寺村の浄厳という和尚であった。お初の相談を受けた和尚は、徳兵衛を寺男にしてお初の年季あけを待たせ、二人の死後は墓を建て、霊を慰めていたという。

 この話を聞いた近松は、早速、脚本づくりに着手する。これを竹本義太夫が上演すると大変な評判を呼んだ。この年にはおかげで、心中が大流行したという話が、まことしやかに伝わっている。

蘭学塾が近代化の土台に

 道頓堀から御堂筋に出る。大阪を南北に走るメインストリートがこの道だ。

 西鶴、近松とくれば残る元禄の代表人物は芭蕉ということになるが、芭蕉が51年の生涯を閉じたのは、この道に沿った大阪・南御堂前の旅舎だった。

 その辞世、
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
が、(深川でも、みちのくでも、伊賀上野でも、京都でも、大津でもなく)ここ大阪の本町近くでよまれたことを知る人は、意外と少ないのではなかろうか。

 御堂筋を、その本町から淀屋橋、梅田方面へ。

 江戸時代の終盤には、百姓一揆や打ちこわしが頻発し、幕藩体制の矛盾が目立ち始めた時期だった。

 淀屋橋から東南に入ったビル街に、ひっそりと建つ適塾も大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎の乱の翌年に、焼跡の街に建てられたものだ。

 蘭学を通してすぐれた人材を育成しようとする適塾は、緒方洪庵によるもの。ここからは、福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎など、日本の近代化を支える数々の人材が出た。

 当時、内政の動揺の一方では、ラックスマン、レザノフの来日、フェートン号事件、モリソン号の撃退など、海外諸国の存在が、日本にとって無視できない大きさになっていた。200年以上の鎖国体制にピリオドが打たれる日が少しずつ近づいてきた。

 そんな時代背景の中、蘭学を通しての人材育成が、後の西洋文化吸収の大きな土台となったことはいうまでもない。

 適塾を出て、すぐ近くの中之島周辺に戻る。そこには明治の開国にともなう欧化政策を象徴するような、いくつもの洋風建築が残されている。

 明治36年建設の日銀大阪支店、明治37年の府立図書館、大正7年の中央公会堂、明治4年の造幣局泉布観など。当時の都市建設が、日本でも、最もよく示されているゾーンが、この中之島周辺ではあるまいか。

道頓堀・法善寺横丁
  • 道頓堀・相合橋
  • 黒門市場
  • 黒門市場
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