時空の旅 (明治維新)志士たちの若さと情熱の跡
戦国~江戸時代
日本史を旅する⑪
(明治維新)志士たちの若さと情熱の跡
「歴史街道」は、古代から近代に到る日本の代表的な史跡を、時の流れに沿って巡っていける「街道」である。
伊勢、飛鳥、奈良、京都といった歴史の街を離れ、私たちが先月着いたのが大阪の適塾。時代(とき)は幕末である。このすぐ近くには、明治建築が建ち並ぶ中之島。さらに四十分ほどいけば、明治の開港とともに栄えた、神戸の国際色豊かな街並みが、私たちを待っている。
この幕末から明治維新への時代は、封建体制が打倒され、のちの太平洋戦争まで続く政治体制が形づくられようとした時期だった。またこの時代は、日本が国らしい国として、世界史や国際社会に関わり始める出発点でもあった。
これまで十回にわたって連載してきた日本史の旅も、ここまで来ると、ぐっと私たちの生活実感に近くなる。また、史跡の多くも、全国のいたる所で、そこに住み、働く人たちの生活とともに今に伝えられている。
そこで今回は(先月の適塾に続いて)この維新前の時代に関わるいくつかの場所を、過去に巡ってきた「街道」沿いにピックアップしてみることにした。
今も往時を偲ばせる「街」
「歴史街道」近くの街並みには江戸時代の様子を髣髴(ほうふつ)させてくれるところも多い。そのなかでも、最も完璧な形で当時の街が残されているのが、奈良・橿原の今井町である。「大和の金は今井に七分」といわれた、かつての商業の町・今井。東西六百メートル、南北三百メートルの狭い町内には、今も千二百軒の民家が建ちならび、そのほとんどが江戸時代のものとされている。
なかでも有名なのは、八軒ある重要文化財の一つ、今西家。八つ棟造りに白漆喰の壁。家の中には牢まであるから驚きだ。
この町とは直接の関係はないが、江戸時代には二千八百件の百姓一揆、三百四十一件の都市騒擾が起きている。民衆のあいだに、いかに封建制度への不満や生活の苦しさがうずまいていたかを、これらの数字が表わしている。
王政復古のクーデータ-が慶応三(1867)年。ペリーの来航は嘉永六(1853)年。明治以降の歴史の二倍以上にあたる、二百数十年も続いた幕府の支配が、ペリー来航後、たった十五年間で崩壊したことになる。この背景には、数々の志士と名もない民衆の命がけの行動があった。
さて、今井町が今も市民の生活の場であるのと同じく、「街道」近くには、今も幕末の志士や民衆にちなんだ二つの宿が旅館業を営んでいる。ご紹介しよう。
その一つは、伊勢・古市にある麻吉旅館。「ええじゃないか」の狂乱時代の風を、最もよく象徴する建物が、ここである。
「ええじゃないか」が起きたのは、慶応三(1867)年。その前年には、百姓一揆の嵐がピークを迎えている。
この「ええじゃないか」の系譜が伊勢神宮のおかげ参りにあることはいうまでもないが、麻吉旅館は、そんな民衆のパワーが全開する少し前、嘉永四(1851)年の創業だ。江戸末期、七十六軒の遊郭と、1千人の女たちを擁した古市のなかで、現在もたった一軒営業中の宿である。
旧参宮路からほんの十メートル。坂というよりは崖をつたって建てられた五層の建物は、いくつもの廊下や階段が入り組んだ造り。かつて精進落しで古市を訪れた参拝客はもちろん、尾崎行雄が書斎として使っていた部屋もここにある。
「龍馬の部屋」に泊れます
幕末の志士たちに関する場所も、「歴史街道」沿いには数多い。佐幕の新撰組が遊んだ島原に対し、薩長土肥に代表される討幕方の遊び場が祇園。大阪の適塾、勝海舟による神戸の和田岬砲台なども、もちろんこれに含まれる。
しかし幕末を語るとき、何といっても忘れられないのが、時の風雲児・坂本龍馬の寺田屋だろう。この寺田屋も、今日まで旅館業を営んでいる。
寺田屋は江戸時代、三十石船の発着地であった伏見の船宿の一つだった。かつて、薩長同盟、大政奉還の功労者となった龍馬は、しばしばここを訪れている。安政の大獄を契機に、公武合体を図ろうとする上層部に対し、志士たちがアジトにしたのが、ここだったのだ。
龍馬が幕吏に襲われたのもここ。勤皇運動ののろしとなった「寺田屋事件」の舞台も、この宿だ。
二階正面奥の龍馬の部屋。柱に刻まれた刀傷、龍馬の画像や志士たちの遺墨。現在もこの宿に泊まる龍馬ファンはあとを絶たない。
幕末の志士たちの若さ
幕末の歴史は、生みの苦しみを伴う激動の歴史であった。
世界史との新しい関わりのなかで、多くの人々が新しい歴史のために命をかけた。
適塾出身の橋本左内は安政六(1859)年、安政の大獄によって死刑。このときの年齢、二十六歳。松下村塾を開いた吉田松陰も、三十歳で死んだ。
奇兵隊を結成したとき、高杉晋作は25歳。彼が死んだのも28歳のときだ。慶応二(1866)年に薩長同盟を結んだのは37歳の西郷隆盛と33歳の木戸孝允。その仲介者の龍馬が31歳、中岡慎太郎は28歳だった。
その翌年、京都・四条河原町に近い近江屋で、龍馬も慎太郎も、他の志士同様、若い命を落としている。
清水寺からのあけぼの亭を右手に三年坂を下り、「維新の道」を山すそまで登ると、この二人をはじめとする五百四十九人の志士たちが、京都の街を見下ろしながら眠っている。
ちょっと信じ難いような彼らの若さと情熱、そして実力のほどに憧れるように、休日には何十組ものカップルがここへ焼香に訪れる。