時空の旅 京都府大山崎 奈良時代 行基が着目した交通の要衝

奈良時代

歴史の現場を訪ねよう

行基が着目した交通の要衝

大阪、あるいは大阪梅田から電車に乗って、京都方面へ向かう。すると途中で、右手に淀川、左手に天王山が見えてきます。山と河川に挟まれた隘路に、JR西日本東海道線、東海道新幹線、阪急京都腺がひしめき合って並走する大阪府と京都府の境界・・・その場所が大山崎です。古代から交通の要衝であり、中世、近世、近代と多様な歴史像を織りなしてきました。

交通の要衝

この場所に最初に目をつけたのは、奈良時代の高僧行基。彼は、師匠の道昭が築きながらも朽ち果ててしまっていた山崎橋を、神亀2年(725)に再建しました。山崎橋とは、淀川右岸の天王山側と、左岸の男山側を結び、宇治橋、瀬田橋と並ぶ三大古橋と言われています。行基は、以後も架橋、堤防築造、土地開発など、社会事業と仏教の伝道を絡めて活動を進めていましたが、まさに古代山崎はそのモデルとなった場所です。

天平3年(731)には、行基によって山崎院という仏教施設も築造され、その際に使用された文字陰刻瓦(府指定)は、現在大山崎町歴史資料館(常設)で展示されています。「秦」などの渡来系の人物の名前や「父母為」というような当時の人々の願いが刻み込まれたものです。

こうした行基の社会事業とつなげた仏教布教を、国家側も注目するようになります。以後橋は何度も洪水で崩落しますが、必ず国家が再架橋するようになりました。今まで奈良盆地にあった都城も、8世紀後半に初めて京都盆地に遷され、長岡京、さらに平安京と変遷し、千年の都、京都へとつながります。長岡京が遷された際、「水陸の便」がよいところを選んだとされましたが、これはまさしく山崎橋があった古代山崎の地を指していると言ってよいでしょう。

すでに築造されていた九州の大宰府と都とを結ぶ官道山陽道から分岐し、山崎橋を経て、四国へ向かう南海道へとつながっていました。橋の上流には山崎津という港が構築され、古代山崎は、陸上・水上交通の要となっていました。まさに大山崎が磁場となって、都を山城国へ引き寄せたと言っても過言ではありません。

大山崎歴史資料館