時空の旅 奈良―平城宮、千二百年前の「歴史と自然」

奈良時代

日本史を旅する④

奈良―平城宮、千二百年前の「歴史と自然」

 飛鳥から、三つの寺院を経て奈良市街が見えると、八世紀・平城(なら)の空気につつまれる。

 辿ってきた「下ツ道」は、大極殿跡につきあたる。その周囲には宏大な平城宮跡が、今も発掘を待ちわびるかのように広がっている。近江、丹波、伊賀、あるいは藤原京から運ばれた二十八万本の木を使い、かつてない規模の新宮が、ここに建設されたのだ。

 東西五・九キロ、南北四・八キロの新都は、藤原京の三・五倍の広さを誇った。人口は最盛期で二十万人だから、今のちょっとした地方都市なみである。そのなかには、天皇や貴族を頂点に、役人、僧、商工業者、全国からの仕丁(してい)や役夫、調・庸を運んできた農民たちがいただろう。遣唐使とともに来日した外国人のなかには、中国人のほかに、インド人、イラン人、ベトナム人もいたという。

 この新都で人々は何を思い、どんな暮しをしていたのだろうか。そんな空想にとらわれながら、平城宮跡から市街地を見ると、現代文明もまた幻のように見えてくる。

歴史にはぐくまれた自然

 現在の奈良の市街は、平城京の東、二条から五条に三坊(三区間)ずつ造られた、かつての外京にあたる。和同開珎の鋳造、地下資源の開発、市(いち)の開設など、着々と顔を整えつつあった新時代を想いつつ、二条通りを東に向う。

 左京二条七坊、現在の奈良県庁の角を左折すると、右手はもう東大寺の境内だ。足を踏み入れると正面に依水園。その向うに高く、南大門の屋根瓦。さらに背景には、若草山の緑が見える。

 道なりに歩くと、奈良の古く静かな町並みがある。志賀直哉、武者小路実篤、尾崎一雄らの文豪が、この街に好み住んだ理由が分かるような気になる。正面には戒壇院の石段、さらに右側に目を向ければ、大仏殿の金色の鴟尾(しび)が光り輝いている。

 やや奥まった所にある大池や正倉院付近。このあたりから見る大仏殿の後ろ姿が格別だ。餌をねだる鹿や団体旅行客に気をとられず、独特の空気に感じいれるのがこのあたりだ。巨大な寺院や仏像にこめられた願いが、千二百年たった今にまで伝えられてくる。

 大仏殿の向うには、鐘楼、二月堂、三月堂がある。鐘楼は唐様(禅宗様)、三月堂は和様を代表する建築物である。天竺様(大仏様)の南大門などとあわせ、一つの寺院の中に、これだけの様式の代表建築があるのも珍しい。東大寺は奈良時代に総国分寺として建立された後、平重衡の兵火によって大部分を消失。その後、中国で宋様式を学んだ重源や臨済禅の創始者・栄西によって再建されている。三つの様式の建物が並んでいるのはこのためだ。

 小高い丘に回廊をはり出した二月堂からは、奈良市街や大和盆地が一望できる。洗練され、整えられた伝統をもつ京都とは対照的に、この街では人々の生活を、歴史にはぐくまれた自然がつつみこんでいる。

火を使うお祭りの多彩さ

 さて、歴史をたどる道筋では、大小さまざまなお祭りが、毎日のように催されている。とりわけここ奈良では、火を使った祭りで有名なものが多い。

 みやげ物屋の看板の左手に若草山の傾きが広がっている。1月の第四土曜日に開催される「山焼き」の舞台だ。さらに小川のせせらぎを越えると、道の両側に石灯籠が並び始め、春日大社が近い。ここでは二月と八月に、名高い「万灯籠(まんとうろう)」の儀式がある。

 午後六時の打ち上げ花火を合図に、いっせいにおこなわれる「若草山焼き」は、東大寺と興福寺の寺領争いに端を発したといわれ、現在はアマチュア・カメラマンたちに人気のお祭りである。西の京の大池、平城宮跡、猿沢池、市内のビルの屋上などのポイントは、いつもカメラマンたちでごった返す。「万灯籠」では、参拝者自らがろうそくで釣灯籠に点灯し、舞楽などを楽しむ。境内の釣灯籠千基、石灯籠千八百基に灯がともされると、春日大社は古代の空気につつまれる。自らが楽しめ、しかもムードも最高のお祭りである。

 他にも、火を使った奈良のお祭りとして、元興寺の「火渡り神事」、東大寺二月堂の「お水取り」、新薬師寺の「おたいまつ」、興福寺の「薪能」、高円(たかまど)山の「大文字焼き」などがある。

 お祭りの火を眺めながら、いや想像しながらでもよい、ゆっくりと古代の空気に浸るのが、奈良の最高の楽しみ方だろう。「ささやきの小道」から新薬師寺や白毫寺、滝坂の道から柳生、さらには岩船寺や浄瑠璃寺方面にも、時間と心に余裕をもって訪れてみたい。

平安の時代へ

 さて、奈良時代のキーパースンといえば、何といっても藤原鎌足の子・不比等(ふひと)の名があげられるだろう。

 大宝律令制定に尽力したのも不比等なら、旧い豪族たちの地・飛鳥を捨てて奈良への遷都を図ったのもこの男。不比等は、娘の宮子を天皇家に嫁がせて、後の聖武天皇が生れると、もう一人の娘・安宿媛(あすかべひめ)をまたその妃にすえた。のちの光明皇后だ。藤原氏の地位は不比等によって不動のものとなり、氏寺の興福寺は今の十倍の寺域を誇ったという。

 この興福寺をはじめ、東大寺、般若寺、法華寺、新薬師寺、春日大社など、現存する寺社の多くは不比等と彼の血を汲む聖武天皇や光明皇后らの手でつくられたのだ。

 不比等の血は、その後も冬嗣、道長など何人もの権力者を生みだし、平安の時代へとつながっていく。歴史の道を辿るように。

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