時空の旅 飛鳥-古代国家基礎づくりの舞台
古代
日本史を旅する②
飛鳥-古代国家基礎づくりの舞台
歴史は、神話から史実へ、空想と伝承の世界から文字と遺跡の時代へ、神話の宮・伊勢から古代史の地・飛鳥へと向う。
この道筋にも多くの歴史が刻まれている。近世の大商人・三井家や国学の大家・本居宣長を生んだ松阪を過ぎ、青山峠を越え、万葉の歌人の歩いた山の辺の道を横に見て進む街道は、退屈しない史跡と風景にとんでいる。だが、私の心と足は、日本の国の始まりの地・飛鳥へと急いだ。
亀井勝一郎は飛鳥の地を訪れたときの感想を、「人間の様々の運命を千年にわたって吸い込んだ土といふものは重い」といっている。ここを上代の貴人たちが彷徨(さまよ)った姿を思い、血刀をひっさげた兵が走り回った氏族闘争の折を偲ぶと、「一塊の土にすら歴史がしみこんでゐるといった風だ」という言葉が実感として伝わってくる。
実際、飛鳥に広がる風景は、わずかな知識と関心によって、古代への想像のドラマの入口になってくれる。巨石を組み合せた「石舞台」から、分厚い土に覆われていた巨大な方墳の量感を思い、そこに葬られた古代日本史の主役の一人・蘇我馬子の力を考えると、この国の始まりのころの文化と政治にまで空想は走る。
大陸文化に接した戸惑い
蘇我馬子が生きたころの飛鳥の里は、素朴な佇(たたず)まいであったろうが、国際的な雰囲気には溢れていたに違いない。朝鮮半島から多くの渡来人がやってきて、新しい技術や知識を伝えた。飛鳥はまさに「飛ぶ鳥」のように遠い大陸から来た渡来人が、朝廷直属の部民として場所を選んで住まわされた「安宿(あじゅく)」だったのだ。 渡来人の手になる遺物は今も多く見られる。飛鳥時代後期のものとみられる高松塚古墳もその一つ。墓室の天井には星宿(星座)、周囲の日月、東西南北には青龍、白虎、朱雀、玄武の四神があり、唐代特有のふくよかな男女が肉太い筆致で描かれている。思想も形も唐風なのだ。実物は永久保存のために封鎖されているが、精巧な復元図は見るものを千年の昔に誘うに十分な魅力がある。飛鳥の地に散在する亀石、猿石、二面石、酒船石、須弥山石など、渡来人の手になったと思われるものは多いが、それがなんのために誰のために作られたのか。ものいわぬ石たちの謎は、大陸の高い文化に接した古代人の戸惑いをも伝えているように見える。今に伝わる飛鳥の智恵
外来文化の吸収は、すべてが容易であったわけではない。最高の文化であった仏教はまた、最大の苦悩をももたらした。
この国に仏教が伝わったのは五三八年、欽明天皇の御代だったと『日本書紀』は記している。このとき、百済の聖明王より送られた仏像を、天皇は蘇我稲目に与えて試しに拝ませたのだ。これは、天皇が仏教信仰の自由をお認めになったことを意味するものだろう。
だが、増加する渡来人とその技術力を背景にして力を伸ばす蘇我氏らは、やがて天皇自身の仏教信仰、ひいては仏教の国教化を願うようになる。次の敏達天皇の御代は何とか過ぎたが、その次の用明天皇になると、天皇自ら仏を拝ませられるようになる。いわば「天皇個人としての参拝」が始まったのだ。
これには、日本古来の神道を守ろうとする物部、中臣一派の反発があった。ために用明天皇が在位一年で亡くなられると、次期天皇の人選も絡んで戦になる。結果は、蘇我氏ら崇仏派の勝利に終り、蘇我氏の推す崇峻天皇が位に就かれた。
だが、ここで困った問題に直面する。天皇家がこの国の「大君」である根拠は、天照大神以来の家系という神道神話に基づいている。その神道を排して仏教を国教としては天皇家の存在理由がなくなってしまうことだ。このため、蘇我氏に擁立された崇峻天皇も次第に反仏教的になり、五年後には蘇我馬子の手でしいられる。歴史の上で、はっきりしいられたと記録されている唯お一人の天皇である。
このとき、天皇家から大天才が現われ、この問題を解決してしまう。厩戸(うまやど)皇子、のちの聖徳太子だ。太子は詭弁ともいえる論理を駆使して「神仏儒習合」の思想を編みだし、神と仏とを同時に信仰することを理論的に肯定した。この説は、外来文化と古来の神々への執着との間で悩んだ当時の人々には救いだったので、たちまちのうちに多くの支持を得た。
これ以来、日本には深刻な宗教問題はなくなった。現代のわれわれもまた、聖徳太子の説いたように、正月には神社に参り、お盆には仏を拝む生活を、心の蟠(わだかま)りもなく続けている。日本人の心理と習慣のなかには、今も飛鳥時代の智恵が息づいているのである。
土と歴史が残った
聖徳太子は、当時の日本人の悩みを解決しただけではなく、この国から永久に宗教戦争をなくした。だが、政争はまだ続いた。聖徳太子の子、山背大兄王の一族は蘇我入鹿に殺され、その蘇我一族も大化改新で抹殺されていく。大化改新の舞台となった飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の北側には、蘇我入鹿の首を埋めたという首塚がある。そのすぐ近く、祖父馬子の発願になる飛鳥寺は、最近の発掘調査で二百メートル四方の寺域をもっていたことがわかった。そこに置かれた止利仏師の作った飛鳥大仏は、今も飛鳥時代の目差しで訪れる人々を眺めている。
大化改新を実行した中大兄皇子は、位に就き天智天皇となり、藤原宮を造営、律令国家の体裁を整えた。このころが飛鳥の都の最盛期であったろう。今も当時の遺跡は多い。だが、それも長くは続かない。やがて都は北に移り、飛鳥の地には土と歴史とが残った。