時空の旅 神戸―近代日本を凝縮した国際都市
近代史
日本史を旅する⑪
神戸―近代日本を凝縮した国際都市
1868年の開港とともに栄えた神戸は、明治以降の日本と世界の交流を、最も端的に表している街だろう。
この街に根付く「進取の精神」は、日本の風土に、欧米の先進文化や中国、インドなど、世界の人々をまじえて醸成されたものである。
その、現代に生きる”先取り精神〟を示す一例に、おなじみのポートアイランドがある。ポートピアでデビューしたこの島は、その周囲が世界一のコンテナ港に、そして島の内部が住宅や「ファッションタウン」になっている。埋め立ての土を切り崩した山中には、マンモス団地やスポーツ施設が。市民病院や体育館などの都市施設も島内に移築、あるいは新設され、市街地の再開発が推進された。ワールド、アシックス、田崎真珠、シャルレ、ボートピアホテル、UCCなどのビルが並ぶ「ファッションタウン」では、建物の一部を街へ集まる人々のためのスペースにするなど、新しい街づくりも始まっている。
このポートアイランド計画がスタートしたのは、なんと完成の二十年近くも前。これだけ見ても、神戸という街の、なみなみならぬ先見性がご理解いただけるだろう。
イギリス人ハートの街づくり
さて、大阪から神戸への道には、だいたい次の三つのルートが考えられる。ともすれば急ぎ足で通り過ぎてしまいがちな道なので、ここでちょっとご紹介しよう。
その一つは、阪神電車を甲子園、灘五郷あたりから神戸へ向かうルート。途中には、菊正宗酒造記念館、白鶴酒造資料館、甲南漬資料館、沢の鶴記念館など、知る人ぞ知る見所がある。
もう一つが、阪急電車を利用して、夙川、芦屋川、岡本などに立ち寄るルート。岡本は学生の街。芦屋川には、フランク・ロイド・ライトによる旧山邑(やまむら)邸がある。このルートは特にお花見シーズンにお勧めだ。
さらに、宝塚から蓬莱峡、有馬、六甲山を経て神戸に入る道である。
どのルートから神戸に入っても、そこにはこれまでの歴史都市とは少し違った、独特の色彩があるはずだ。
さて、時代(とき)は19世紀半ば。日本は列国からの開国要求に応じて、四つの港を開港した。箱館、神奈川、兵庫、長崎の四港だ。
このときの幕府の本音は、江戸や大坂から遠い、箱館、長崎だけの開港だったという。二つの大都市に外国人が来ることを、できるだけ避けたかったということなのだろう。そして、妥協案として開港したのが、二つの大都市から少し離れた神奈川、兵庫の開港だったというわけだ。
この日から、小さな漁村に過ぎなかった神戸は、国際性と進取の気質に満ちた街として発展していくこになる。
港に近い、旧外国人居留地。ここではイギリス人・ハートを顧問に、新しい街の建設が始まった。
遊歩道、街路樹、ガス灯、公園、下水道。今の市立博物館周辺に繰り広げられた大胆な工事に、当時の日本人たちの驚くさまが目に浮かぶ。
開港が近くなると、居留地に住めなかった外国人のために、「雑居地」なるものも定められるようになった。内外人の雑居が認められた場所。それが、今日の北野異人館に代表される場所である。
これらの異人館街については、多くの説明を要すまい。風見鶏の館は明治四十二年。白い異人館、明治三十六年。うろこの家、大正十一年。相楽園や王子公園にある旧ハッサム邸、ハンター邸は、それぞれ明治三十五年と四十年の建築だ。これらの異人館は、戦後二百軒近く残っていたが、現在では三十軒あまりになってしまったという。
もちろん、国際色豊かな神戸の魅力を知るには、このような異人館めぐりだけでは不十分だ。
ブティックやレストランが点在する異人館通りからハンター坂を下り、らんぷ博物館を右へ。西に向かうと日本最初の回教寺院、さらに進むと竹中大工道具館の向うに、アメリカ人・ランバス親子による栄光教会がある。
JR元町駅に近い南京町(中華街)。阪急花隈駅で行くとインド風の尖塔をもつモダン寺やその北に中国寺院の関帝廟。さらに塩屋、舞子方面に足を延ばすと、ドイツ人・グゲンハイムの旧邸や、大正七年、中国人・呉錦堂が建てた移情閣が、海を眺めて建っている。亡命中の孫文が滞在したという移情閣は、数年前から「孫中山記念館」として公開されている。