時空の旅 京都府大山崎 平安から室町時代 国境のまちから油売りのまちへ

平安~室町時代

歴史の現場を訪ねよう

国境のまちから油売りのまちへ

大阪、あるいは大阪梅田から電車に乗って、京都方面へ向かう。すると途中で、右手に淀川、左手に天王山が見えてきます。山と河川に挟まれた隘路に、JR西日本東海道線、東海道新幹線、阪急京都腺がひしめき合って並走する大阪府と京都府の境界・・・その場所が大山崎です。古代から交通の要衝であり、中世、近世、近代と多様な歴史像を織りなしてきました。

平安京の出入口

9世紀前半になると、中国趣味だった嵯峨天皇は、風光明媚な山崎に離宮を構え、近臣たちとともに、この地に因んだ漢詩作成に没頭しました。淀川のうち太陽が照る方向として、山崎のことを中国風に「河陽」と表現していました。山崎橋も「河陽橋」と表現していました。この橋を題材にした漢詩が『文華秀麗集』に掲載されていますが、天皇が治める京都と、西日本から納められる貢物との境界として山崎橋を位置づけています。

承平5年(935)、土佐から帰ってきた紀貫之は、淀川を遡航する船上から山崎橋を見つけました。思わず「うれしきことかぎりなし」とつぶやきました(『土佐日記』)。

仁和2年(886)、若い菅原道真が讃岐に赴任する際、親しい友人と山崎駅で手を取って別れたといいます(『菅家文草』)。

寿永2年(1183)、木曽義仲に追われた平家は、山崎内にある山城・摂津国境に差し掛かった際、都落ちを実感しています(『平家物語』)。

山崎という土地は、平安貴族にとって都の出入を実感させる土地柄だったのです。

そうした場所だったこともあり、平安時代前期には、さまざまな国家的施設が築かれました。前述した離宮は、第四次山城国府に転用されています。さらに国の後援で建立された相応寺、国による造瓦にあたった大山崎瓦窯跡が残っています。天王山の中腹にあり、近年国指定史跡として整備された瓦窯跡は、眼下の淀川舟運とつながり、交通至便な窯跡としても注目されました。当時、山崎津には、西日本から物資が陸揚げされ、「傭賃之輩」と呼ばれる運送集団によって都へと運ばれました。地元には「有勢人」と呼ばれた人々が橋の維持管理を担っていました。古代山崎は京都の人々がやってくる歓楽街でもあり、夜になると淀川には遊女の舟が浮かびました。

山寺から開かれた寺院へ

山崎橋は、平安時代中期には廃絶しますが、山陽道は以後も維持され、沿道には油売りの集落が成立しました。13世紀初頭には後鳥羽上皇が大山崎の西隣に水無瀬離宮を造営しましたが、近侍した藤原定家は、大山崎の油売りの屋敷で寝泊まりしたといいます。

また、行基建立と伝える天王山中腹の宝積寺は、もとは「宝山寺」という山寺でした。しかし、平安時代後期から、貴族や庶民からの信仰を得るようになり「宝積寺」「宝寺」と呼ばれるようになりました。天福元年(1233)、本尊の十一面観音立像(重要文化財)の新装がなった際、数多くの人々が奉加していたことが史料から確認できます。また、本堂西側には霊験のある石造物として仁治2年(1241)銘の刻印のある石造九重塔(町指定)が残っていました。こうした点から、庶民からも信仰を集めた寺院になりつつありました。

一方、天王山の北西の山中に行基が建立したという慈悲尾山寺は、従来は天王山西中腹の山間部に位置していました。しかし、平安時代後期頃から信善谷(現在のサントリー蒸留所)に場所を遷し、西観音寺と称しました。参詣道は西国街道としっかり接続し、境内の出入口には閻魔堂が建てられ、街道沿いの憩いの場になりました。現在宝積寺には、鎌倉時代の閻魔王坐像が残っていますが、これは元々西観音寺の閻魔堂に鎮座していました。西観音寺は明治維新時に廃仏毀釈によって、廃寺となったため、閻魔王坐像は宝積寺に移転され、現在は重要文化財となっています。ちなみに、サントリー蒸留所の受付の前に、かつての閻魔堂跡の石碑があります。

宝積寺、西観音寺とも、もともとは世間とは距離をあけた山岳寺院でしたが、中世に入り、次第に開かれた存在となり、多くの信仰を集めることになります。

国境の街から油売りの街へ

鎌倉、室町時代、八幡宮に仕える大山崎神人たちが、荏胡麻油販売で活躍していたことは、よく知られています。当時、西日本各地で産した荏胡麻が大山崎に搬入され、これを搾って荏胡麻油を製造していました。その用途は灯明油であり、寺社の祭礼や庶民の生活に使われました。八幡宮に仕える神人たちは、国家機構、あるいは各地の有力者と折衝して、その専売権を獲得していました。こうした特権は朝廷から室町幕府へ移行した後も守られ、ほぼ400年もの間、特権を確保していた点は特筆されます。

こうした神人・社家たちから信仰を集めていたのが、JR山崎駅前の離宮八幡宮です。現在も社家たちが担っていた日使頭祭が四月に行われています。

この離宮八幡宮の西側に山城、摂津、現在の京都府、大阪府の国境がありました。もともと大山崎は山城、摂津の国境をまたいだ街でした。奈良時代には関所があり、通行する人々を監視していました。鎌倉、南北朝期には、現在の離宮八幡宮境内と、関大明神社の間の西谷川という小川が国境となっていましたが、これを通り越して西国街道沿いに屋敷地が並んでいました。14世紀には、関戸大明神までは摂津国だからということで同国守護が臨時に段銭を徴収しようとしました。しかし、大山崎側は山城国だと称して、その課税を逃れようとしています。国境をまたいだ街の景観を利用しようとしたのです。しかし、関大明神社があるため、さすがに国境は変えられません。そこで、彼らは「神人在所」という全く別な理屈をひねり出して、新しい経済特区を作り出しました。明徳3年(1392)12月、足利義満は、この意見を受け入れて、大山崎の領域を西は水無瀬川、東は隣村の円明寺村までと正式に決定し、国境よりも「神人在所」という枠組みを優先させ、守護大名から干渉されない空間が認められました。大山崎は、国境という複数の守護権力か交錯した空間を上手に利用して、自治権を獲得したのです。

宝積寺山門
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