時空の旅 京都(鎌倉時代) 「平家物語」を今に伝える里
平安~室町時代
日本史を旅する⑥
京都(鎌倉時代) 「平家物語」を今に伝える里
平安期、貴族政治の経済基盤だった荘園から、武士団が台頭してきた。僧兵に象徴される大寺社の反乱や保元・平治の乱を経て、その力が世に示されるようになる。平氏政権の確立。源平の争乱。そして鎌倉時代がおとずれた。
一族の冥福を祈った尼寺
平安時代ゆかりの地を追って京都市街の東をめぐった道を、今度は比叡から八瀬へと下る。
鴨川分流の高野川に沿った山あいに、日本海に続く1本道が見えてくる。京都から、八瀬、大原へと北へ向かう一本道だ。「敗北」という言葉が示すとおり、この道は、源平の争いに敗れた人々が、失意のうちに京を追われた道だった。
八瀬付近には、1159年の平治の乱で京を追われた源義朝の一団が、比叡山の法師たちに襲われ、鎧・甲を川に投げ込んで逃げ去ったという話が伝わっている。後に鎌倉幕府を開く頼朝も、父の義朝とともに、その一団に含まれていたのだろう。
比叡山からのケーブル駅周辺には、「義朝駒飛岩」や「碊(かけ)観音像」といった伝承物もある。高野川東岸の「駒飛岩」は、義朝が馬ごとガケから落ちたときに一命をとりとめたもの。
碊観音寺内の観音像も、義朝一族が源氏再興を祈って彫ったものだとされている。
義朝はほどなく斬首されたが、同じころに生まれたのが九男の牛若丸こと義経だった。そして、25年後、彼の手によって平氏打倒がなるわけだ。やはり逃走の幼年期を送った義経は、ここからそう遠くない鞍馬の地で、平家打倒の修行にはげんだという。
八瀬から、さらに数キロ北に向かうと義経にとどめを刺された平家の物語を、今に伝える里がある。申し上げるまでもない、大原の里である。
花尻の森を越え、山なみが開けると、静かでうら寂しげな田園風景が目前に広がってくる。平清盛の娘で安徳天皇の母でもあった建礼門院が、この大原の地で残る生涯を送ったのは、あまりにも有名だ。入口にあたる花尻の森には、当時、頼朝の命令で彼女を監視する人々が住んだとも伝えられている。
西側の山なみを覆う、真っ白い霞。段々の田畑をぬって走る田舎道。どこにでもありそうな盆地風景には、数々の伝説や草生(くさお)川のせせらぎ、黒瓦や石垣、生け垣をもつ民家、あるいはみやげ物屋に集う若い女性たちも含めて、大原独特の空気(ムード)が醸し出されている。
三千院、音無滝から西側の山ぎわへ。民家と田畑を横切る小路を右折し、落合の滝を越える。左手にせせらぎが見え始めると、もう寂光院だ。建礼門院がそのかたわらで、「一間を御寝所にしつらひ、一間をば仏所に定め」て、一族の冥福を祈った尼寺だ。カエデの大樹に覆われた石段の右手には彼女の墓が、門前には阿波内侍らの石塔が、いずれもひっそりと建てられている。
鎌倉仏教の影響
さて、再び京都市街へ戻ろう。
鎌倉時代に生まれたもので、その後の日本社会に大きな影響を与えたものといえば、何といっても6つの新仏教の存在があげられる。なかでも臨済宗や曹洞宗が修行方法としたZENは、日本文化の象徴的存在として、世界の人々に知られるようになった。仏教界の腐敗、戦乱、末法思想などを背景に新仏教が登場し、とりわけ禅宗の教えは、時代の気風や武士の生活にマッチしたものだった。 ルートを京都の北側に設けると、その代表的寺院である大徳寺が見えてくる。
大徳寺は臨済宗大徳寺派の総本山。十四世紀に入って宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が紫野(むらさきの)に庵を開いたのがそのはじまりだ。その後、後醍醐天皇の支持で大伽藍を造営し、五山の一つに列せられるようになった。また室町時代には、後醍醐天皇と対立した足利尊氏によって十刹におとされ、さらには二度の大火で全焼したものの、のちに一休、村田珠光らによって復興されている。秀吉、信長ともゆかりが深く、千利休の切腹事件なども有名だ。
広い寺域の中には、いくつもの茶室や見事としかいいようがない、数々の庭園がある。実際に見物できるのはその一部だが、鎌倉に端を発する精神文化の一端が見てとれる。寺域中央の勅使門、三門、仏殿、法堂、庫裡、方丈などは、妙心寺とともに、近世の禅宗伽藍を示している。三門楼上には、利休が秀吉の怒りを買って切腹させられた「雪踏(せった)ばきの利休像」もある。
禅宗に限らず、鎌倉時代に登場した新仏教は、私たちの生活に大きな影響を与え続けてきた。当時、奈良時代までにあった南都六宗(三輪、成実(じょうじつ)、法相(ほうそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律)と平安時代からの天台、真言の二宗をあわせて「八宗」といったが、このうち南都六宗は、今では実生活上ではほとんど私たちになじみがない。寺院見学や近世の黄檗(おうばく)宗などの例外をのぞけば、私たちの生活は天台・真言の二宗に鎌倉仏教を加えた新・八宗(?)に、今でもかなりの影響を受けているのだ。
大徳寺に限らず、これらの新仏教が今に伝わるまでには、いくつもの時代の変化や紆余曲折があった。廃仏毀釈やキリスト教など他教との関わりはもちろん、寺院の歴史を見るだけで、その後の政治・経済と仏教とのいく通りもの関係が見えてくる。
檀家であった徳川家の支援を受けて発展した浄土宗総本山の知恩院のような寺もある一方で、十一年間も信長と戦い、秀吉によって京都に復帰し、勢力を恐れた家康からは分割政策をとられた浄土真宗・本願寺のような寺も、今なお京の地に息づいている。