時空の旅 安土桃山― 恐ろしくリアルな信長の夢跡
平安~室町時代
日本史を旅する⑧
安土桃山― 恐ろしくリアルな信長の夢跡
京の西側に南北朝・室町文化を巡った道を、嵐山から大阪方面へ向う。平安・中世から、いよいよ戦国時代に入っていく。
桂川が宇治川、木津川と合流し、淀川となるあたり。京都府と大阪府の境近くに天王山がある。「天下分け目」の山崎合戦の舞台となった、あの天王山だ。
2時間20分で天下を取る
1582年6月2日、未明。明智光秀が「本能寺の変」を起した。
備中高松城の水攻めをしていた秀吉は、翌日の夜にこの情報を得る。光秀が毛利家に送った密使が、道を誤って秀吉陣内で捕えられたというから、これは偶然というしかないだろう。
だが、ここからの彼の動きは速かった。
ある若手の財界人は、これをビジネス社会になぞらえ、「秀吉は2時間20分で天下を取った」という。
偶然の情報を得た秀吉は、すかさず翌日に毛利氏と講和を結ぶ。高松城主清水宗治を切腹させ、毛利氏の万一の反撃を防止する策を講じた後、6日夕刻に高松を出、爆風雨のなか、姫路に入った。そして、9日に姫路を出陣。11日に尼崎、12日には富田に着いている。この間、淡路島に出兵したほか、13日の決戦までに池田恒興、高山右近らの援軍を得、2万余りの兵力を確保した。
秀吉がこの間に要した時間は、情報入手までの40時間と山崎で勝つための10日間(240時間)。ちなみに、当時の東京・大阪間の旅は約15日(360時間)かかったというから、人の移動速度を比較すれば、ざっと今(3時間)の120分の1だ。仮に秀吉が要した10日と40時間を120で割り、今の高速社会に換算すれば、「2時間20分で天下を取った」計算になる。
当時、確かに個々の人材や兵力、あるいは情報収集力という面だけを比べれば、秀吉より有利な武将もいたはずである。その意味では、秀吉は今のビジネス社会同様に、「チャンス」を「スピード」によって生かし、天下を取ったといえるのだ。
右手に天王山が見え始めると、道ぞいに山崎聖天、次いで山崎宗鑑の冷泉庵跡がる。かたわらの道を、山頂に向ってみよう。
大念寺という小さな寺を左折し、宝寺境内へ。三重塔をもつ宝寺は、山崎合戦のときに秀吉が陣を張り、のちに山崎城の一部にしたところ。境内には山並みをなめるように坂道が続く。その中腹に展望公園がある。眼下、川ぞいに広がる1キロ幅の平地には、国道171号、新幹線、阪急、JR、そして旧西国街道が走っている。少し先には京阪電車、山中のトンネルには名神高速も通っている。ここが交通の要地であることは、当時も今も変りない。
山道に岩肌がのぞき、やや戦国の舞台らしくなってくると、山崎合戦の碑や秀吉の旗立松が見えてくる。ここからは、山崎一帯の合戦地理が、手に取るように見渡せる。山頂の山崎城本丸跡が、もう目前だ。
山崎からサントリー研究センターの脇を抜けて若山神社方面に行くと、そこには今も秀吉が合戦時に抜けたといわれる山道(太閤道)がある。ハイキングコースとはいうものの、道というほどの道がない急坂が、いくさ前の緊張を表わすように延びていく。高槻までの道のりのなかで、ほんの400年前まで実在した大殺戮の時代に思いをはせる。ゴルフ場や高圧電柱の並ぶ頂上部も、平和な時代の象徴と思えばご愛嬌だろう。
当時と変らぬ琵琶湖の眺望
さて、すこし外れるが、京都からの道でお勧めしたいのが、琵琶湖東岸につづく、戦国史跡の旅である。湖を左に見ながら、安土、長浜、賤ケ岳。米原と長浜から少し外れれば、関ヶ原や姉川の古戦場もある。
このなかでも特にお勧めなのは、何といっても信長が建てた安土城の跡だろう。石垣と森と墓地だけが残る台地は、全く復元されていない分、今も恐ろしくリアルな戦国の残骸となっている。そして対照的なのが、当時と変らぬ琵琶湖の眺望だろう。ヨーロッパにも知られた幻の名城と信長の夢。そして横死と城の焼失。ここを中心に繰り広げられた一連のドラマは、まさに大きく日本の歴史を変えたことになる。
山頂からの風景を見ながら、もし「本能寺の変」がなかったら、ここが日本の首都で、今ごろ琵琶湖の周りに山手線が走っていたかもしれないんだなぁなどと、歴史の不思議を考えてみる。
考えてみれば、私たちの社会は、このような、ありとあらゆる歴史の偶然の産物だ。
歴史の不思議といえば、信長が信長たり得た最大の要因にも、彼と鉄砲伝来との、偶然の巡り合せがあった。そして、さらに面白いことに、その偶然の背景には、世界の国々の歴史と日本の、抜き差しならない関係が見えてくる。
蒙古軍のヨーロッパ遠征時に初めて鉄砲が使用され、一方で、マルコ・ポーロが「黄金の国・ジパング」をヨーロッパに紹介したのは13世紀のことだった。のちに訪れる大航海時代のなかで、日本の戦国時代が大きく変容する布石は、すでにこのころ打たれていたわけだ。
さらに、「オランダ製の鉄砲が日本に来る」背景としてあげられるのは、ヨーロッパでの火薬や遠洋航海用羅針盤技術の発達だ。この二つの技術は、もともとは東西交易で活躍したイスラム商人の手で、ヨーロッパにもたらされたもの。発明のルーツをたどれば、11~12世紀の中国に行きつく。
つまり、中国での二つの画期的発明が、数世紀のうちに地球の裏側を廻り、ヨーロッパの鉄砲となって日本に伝わった。日本史はこれによって急激な変化を見せ、たび重なる偶然ののちに、私たちの、今の社会が成立しているということである。