地域連携事業 紀伊山地三霊場会議

紀伊山地三霊場会議

紀伊山地三霊場会議は、ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(平成16年登録)の登録地である熊野・高野・吉野大峯の15ヶ社寺により、登録5周年を機に設立されました。その目的は、それぞれ登録施設に関わる宗教者の立場から、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の保全と発展に寄与するとともに、「第一の門番」としての役目を目指しています。

新着情報

紀伊山地三霊場会議加盟社寺

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熊野那智大社

熊野那智大社は熊野三山の一社として、 全国に広がる熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い御社です。
古来当社はご祭神「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮」と称され、人の縁や諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。別宮の飛瀧神社は那智御瀧を御神体としてお祀りしております。また、八咫烏は縁起によりお導きの神として交通・海上の安全を祈り崇められています。当社は熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。

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熊野速玉大社

熊野速玉大社は、熊野三山の一社として全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。熊野三所大神は新宮の神倉山に降臨され、景行天皇58年、初めて現在の地に御社を建てて鎮祀したことから、この地を「新宮」と申します。
主祭神は、熊野速玉大神・熊野夫須美大神で、熊野速玉大神は過去世の救済をされる薬師如来、熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として権現(仮の姿で現れる)され、三熊野詣は、滅罪・甦りへ の道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺も生まれます。平成16年7月7日「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録されました。

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熊野本宮大社

熊野とは「蘇り・再生」の地であり「新たな出発」の地といわれ、太古より男女貴賤を問わず多くの人々が参詣に訪れました。
神は仏であり、仏は神である 熊野古道という長い参詣道を歩き一番最後にお参りをするのが熊野本宮大社であります。
信仰の灯を絶やさず、祈りを絶やさず、そこに奉仕する人ばかりではなく信仰する人々の力こそ熊野が今なお多くの人々を引きつける聖地なのであります。

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青岸渡寺

青岸渡寺は、仁徳天皇の御世に熊野浦に漂着した天竺(インド)の僧裸形上人が、那智の滝での厳しい修行ののちに観世音菩薩を感得し、ここに庵を結んだのが始まりとされています。推古天皇の御世には、堂舎が整えられ、生仏上人が入山され、如意輪観世音を御本尊として安置されました。
現在の本堂は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で弟秀長により再建され、那智大滝を拝する向きに建てられました。御本尊は如意輪観世音菩薩です。
明治初期の神仏分離で熊野那智大社の行者堂は取り壊されましたが、令和5年当寺境内に再建されました。

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補陀洛山寺

補陀洛山寺は、仁徳天皇の御世に熊野浦に漂着した天竺(インド)の僧裸形上人により開かれたと伝えられています。江戸時代まで那智七本願の一角となる大伽藍でしたが、文化5年(1808)の台風により主な堂塔は失われ、平成2年に室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建されました。御本尊の三貌十一面千手千眼観世音菩薩は、平安時代後期の作と伝えられ、重要文化財に指定されています。
 当山は、補陀洛渡海の寺としても知られています。補陀洛渡海は、那智の浜から船に乗り、観音の浄土補陀洛山へ往生しようとする宗教儀礼で、貞観10年(868)の慶龍上人にはじまるとされています。多くの「熊野参詣曼荼羅」には、この補陀洛渡海の場面が描かれています。

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金剛三昧院

金剛三昧院は、建暦元年(1211)、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室北条政子の発願により源頼朝の菩提を弔う禅定院として創建されました。開山供養には栄西も招かれ、開山第一世となりました。承久元年(1219)、源実朝の菩提を弔うため金剛三昧院と改められ、以後将軍家の菩提寺として篤く信仰されました。国宝多宝塔は、貞応2年(1223)に建立され、現在高野山内に残っている、もっとも古い建造物です。塔内には仏師運慶作と伝えられ、重要文化財に指定される秘仏五智如来像が安置されています。

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金剛峯寺

和歌山県にそびえる標高900mの山上の盆地に広がる高野山は、弘法大師空海によって弘仁7年(816)に真言密教の根本道場として開かれました聖地です。
世界中から人々が訪れる祈りの地で「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に平成16年(2004)7月7日に登録されております。
高野山は壇上伽藍と奥之院の二大聖地を擁する。総本山金剛峯寺を中心に現在117の寺院があり、51カ寺が宿坊寺院として宿泊ができます。

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慈尊院

慈尊院は山号を万年山といい、高野山を下ること20キロメートルの紀ノ川左岸に建立されました。元々は高野山の寺務を掌る政所が置かれ、高野山への参詣道である高野町石道のはじまりともなっています。
当山は、空海の御母公玉依御前とのご縁により、古くから女性に深く信仰され、女人高野として知られています。境内には、弥勒堂を中心に複数の堂舎が立ち並びますが、現在の弥勒堂は鎌倉時代に再建され、天文9年(1540)に改築されました。弥勒堂には、秘仏御本尊の弥勒仏坐像が奉安され国宝に指定されています。

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丹生官省符神社

弘仁7年(816)弘法大師が創建された当社は、本殿三棟が世界遺産に登録されています。空へと続くような百十九段の石段をのぼると、緑あふれる境内が広がり極彩色の本殿が拝めます。高野町石道登山口に鎮座し、道中の安全を祈願し登ります。また、境内からは高野山(楊柳山)が遥拝できます。
弘法大師を高野山へと導いた高野御子大神をお祀りしている事から良い方向に導いてくれる、良いご縁に巡り合える神社として崇拝されています。

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丹生都比売神社

創建は千七百年以上の昔に遡ります。主祭神の丹生都比売大神は丹(水銀朱)を司り、あらゆる災厄を祓う女神として朝廷からも崇敬され、紀伊山地北西部一帯を神領とされました。後に空海へ高野山を授け、高野山の総鎮 
守・真言密教の守護神となられました。
また元寇において格別の神威を顕したとして鎌倉幕府の崇敬を受け、以来武士からは軍神としても信仰されました。社宝として国宝を含む多くの文化財を所蔵し、室町期造営の本殿ならびに楼門は、重要文化財に指定されて
います。

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大峯山寺

大峯山寺は、役行者が金剛蔵王大権現を感得し、それを山上ヶ岳に祀ったことに始まるとされます。この御堂は山上蔵王堂と呼ばれました。境内の周辺には、護持院の桜本坊、竹林院、東南院、喜蔵院、龍泉寺5ヶ寺の宿坊が建ち並び、奥駈修行に向かう修行者が宿泊しています。
 現在の本堂は元禄4年(1691)の再建で、重要文化財に指定されています。この再建に際して、藤原道長などが埋納した経塚が発見されたと伝えられています。

金峯神社

金峯神社は、吉野山金山毘古命を主祭神とし、吉野山の地主神として崇敬を集めています。境内に至る参道には、山上ヶ岳までに四つの門の内、第二番目の修行門が建てられています。『栄花物語』や『紫式部日記』には、御岳詣に向かう藤原道長が参詣した記事が残されています。近世までは金精大明神とも称されていました。境内の蹴抜塔(隠れ塔)には、兄頼朝との確執から吉野山へ逃れた源義経が、この塔内に身を潜めていると、敵方が迫ったので、屋根を蹴り破って逃げたという伝承があります.

金峯山寺

吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳、金峯山と称され、古代から修験道の根本道場として崇敬された聖域でした。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行され、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、その尊容をヤマザクラに刻み、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。
現在の本堂は安土桃山時代の再建で、現在国宝に指定されています。

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吉野水分神社

 吉野水分神社は、『続日本紀』文武天皇2年(698)に「芳野水分峰神」とあるのが初見とされます。御祭神は、正殿に天之水分大神、右殿に玉依姫命、天萬栲幡千幡比咩命、左殿に高皇産霊神などが祀られています。古来、水を掌る神社として信仰を集めましたが、別名子守宮とも称されました。本居宣長は当社の申し子と信じ、特に崇敬していました。現在の社殿は、慶長10年(1605)豊臣秀頼により本殿、拝殿、幣殿、回廊、楼門が再建され、重要文化財に指定されています。

𠮷水神社

𠮷水神社は元は吉水院という役行者が創建した修験宗の僧坊でしたが、神仏分離により明治8年(1875)に「𠮷水神社」と改められました。
<御祭神 後醍醐天皇・楠木正成・吉水宗信法印公>
境内には日本最古の書院建築(重要文化財)があり、書院内には義経と静御前が最期の時を過ごした「義経潜居の間」や「後醍醐天皇玉座の間」があります。また、境内から見える一目千本の桜の景色が有名で、秀吉が花見をした際に本陣宿坊とされました。

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