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【読者の投稿】令和2年11月28日(土) 南海・歴史探訪ガイドウォーク 第4回 勝間(こつま)街道から古代の官道・難波大道を歩く

今年は新型コロナ感染拡大の影響で、第1回は来年3月に延期、2・3回は中止になりました。 そんな中、第4回は、朝から晴天でちょっと肌寒いなか、本日の集合場所の南海線住吉大社駅に向かいました。 集合場所に到着したのは、受付開始時刻よりも早い時間だったので、ガイドの方々は、本日のコースの確認や、コロナ対策の打ち合わせを、入念にされておられました。 今年のテーマは、『あなたの知らない歴史秘話』です。 本日のコースは、住吉大社駅が受付場所で、その後、住吉大社反橋→大海神社→(住吉)生根神社→紀州街道→勝間(こつま)街道→光福寺→(玉出)生根神社→阿部野神社→岸の姫松→清明丘中央公園(昼食)→播磨塚・小町塚→法楽寺→難波大道→山坂神社(ゴール)の約9kmです。 本日は当初54名の申込みがあったそうですが、コロナの影響で8名の方が不参加となり、46名での出発となりました。 受付をすませた参加者から、1班10名でまずは住吉大社に向かいます。 住吉大社の反橋(そりはし)は太鼓橋とも呼ばれて、長さ20m、幅5.5m、高さ3.6mで、慶長年間に淀殿が奉納したと伝わり、6本の石の橋脚が当時の物として残っています。 住吉大社は約1800年前に神功皇后が住吉大神を鎮座して祀ったのが始まりとされ、一般には航海安全の神として信仰されています。 それは、この地が遣唐使船の進発の地であったことに由来しているからだそうです。 大海(だいかい)神社は、海神の豊玉彦命と豊玉姫命を祭神とし、当神社の神主だった田裳見宿禰(たもみのすくね)に住吉大神を祀るように、神功皇后に命じられたそうです。 しばらく歩いて、(住吉)生根(いくね)神社に着きました。住吉大社より古いという伝承があり、祭神は少彦名命です。

生根神社を出て少し歩いたところに閻魔地蔵堂があり、ここには顔が閻魔大王、首から下が地蔵菩薩という像が祀られています。 中が暗くて写真が撮れませんでしたので、イメージ図を作ってみました。 これにまつわる話として、人が死ぬと49日目に閻魔大王により地獄か極楽か、行き先を決められるのですが、子供が亡くなると閻魔大王により、すぐに極楽行きと決められるそうです。子供はそんなに大きな悪行をしているはずがないと、閻魔大王の判断によるそうです。 そこで閻魔大王は、時々、地上界に降りてきて子供たちが悪いことをしないように見守っているのですが、閻魔大王の姿のままでは具合が悪いので、地蔵菩薩に化身して地上界に来ているそうです。

すぐに広い通り、阪堺電車の通る紀州街道に出ます。 熊野街道より海側を通り、大阪と和歌山を結ぶ街道です。紀州街道をしばらく北に向かいますと、粉浜中在家で勝間(こつま)街道と分岐します。 昔はこの辺りは農村地帯で、周辺で穫れた農作物を難波に運ぶために整備された、今でいう産業道路だそうです。 勝間(こつま)街道をしばらく歩き、街道から別れたところにあるのが、光福寺です。嘉祥元(848)年に、遣隋使の小野妹子を祖とする家系で、小野小町がいたとされる小野篁が創建した寺院で、奈良興福寺の別院だったとされています。

すぐ近くにあるのが、(玉出)生根神社です。創建時期は不詳ですが、当初は有喜(うき)恵美寿社として蛭児命(ひるこのみこと)を祀っていましたが、(住吉)生根神社の少彦名命を勧請して勝間村の産土神とされました。 毎年冬至には、勝間南瓜祭が開催されています。また、現在社務所の壁には、イカ揚げのイカが展示されています。イカ揚げとは、今の凧揚げの元になったもので、昔、将軍家の行列にイカ揚げのイカが落ちてきたために、イカ揚げが禁止されましたが、どうしてもイカ揚げをしたい庶民が、「これはイカではなく、タコだ」と言って、イカ揚げをしたため、その後は凧揚げと呼ばれるようになったそうです。 ここから東へ歩きますと、阿部野神社に着きます。この神社には、北畠顕家(あきいえ)と父の親房(ちかふさ)が祀られています。 さらに東へ歩きますと、住吉高校の校舎とグラウンドの間にある道に植わっているのが、謡曲や能の高砂で有名な「岸の姫松」です。今はわずかに4本の松しか残っていませんが、昔は見事な松並木だったそうです。 さらに東へ向かい、阪堺電車の走る道路の横にある晴明丘公園で昼食です。 昼食後、東へ向かい阿倍野筋を北へ行った住宅街の一角に、「播磨塚・小町塚」があります。

播磨塚は、南北朝時代の住吉の合戦で、南朝の楠木正行(まさつら)との戦いに敗れた播磨・赤松円心の子・貞範が、戦死した将兵の遺骨を納めて築いた塚だと伝わっています。 小町塚は、古書に小野小町の塚だと記されていますが、小町がこの地で亡くなったという記録はないのです。 ここから東へ約20分、JR阪和線を越えてすぐにあるのが、法楽寺です。 真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派の大本山で、「田辺のお不動さん」の名で親しまれています。平重盛の手で創建されたと言い、戦死した兵士を敵・味方関係なく葬ったとされています。 法楽寺を出て、難波大道を南下しますと、最後の訪問地の山坂神社に着きます。古代この地は渡来系士族の田辺氏の支配地で、現在の田辺と言う地名も、この田辺氏に因んだと言う説があるそうです。昔は住吉大社の上位の末社で、それなりに繁栄していたそうです。祭神は天穂日命(あまのほひのみこと)で、相撲の神様の野見宿禰命(のみのすくねのみこと)も祀られていて、村相撲が盛んだったそうです。 午後2時前に、アンケートを記入し、記念品をいただいて最寄り駅のJR阪和線・南田辺駅へと向かいました。次回は、本来今年の5月に催行予定だった第1回の堺が、来年の3月に行われる予定です。