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読者の投稿「令和元年 第1回 南海・歴史探訪ガイドウォーク」 家康の命を救った木地屋の夕雲開き 令和元年5月26日(日)
天気予報で最高気温が30度越えの予報があるなか、本日の集合場所の南海本線堺駅に向か いました。 今年のテーマは、「あなたの知らない歴史秘話」です。 本日のコースは、堺駅が受付場所で、その後、妙国寺→興覚寺・光明院跡(櫛笥寺)→初霜坂 →大山古墳拝所→堺市都市緑化センター(昼食)→大山古墳外堀取水口→筒井家住宅→金口公園(ゴール)→中百舌鳥駅の、約9.3kmです。 ちょっと早めに受付場所に着いた私は1班に入り、受付場所が狭いため定数になった9時8分に出発しました。 申込者は100名以上あったそうですが、真夏日以上の気温予想のせいもあってか、本日の実参加者は78名だったそうです。 最初の見学は、歩いて20分ほどの妙国寺ですが、途中ザビエル公園を通ります。 この公園は、昔は豪商の屋敷跡で、当時、堺を訪れていたフランシスコ・ザビエルが逗留していたところで、移転に伴い堺市に跡地が寄贈され、公園に整備され命名に際してザビエルが逗留していたことがあるというところから、ザビエル公園と命名されました。
妙国寺は、徳川家康が織田信長の勧めで堺に来た時に逗留し、その時、「本能寺の変」が発生し、遠江に帰国するのに筒井庄右衛門と服部半蔵の道案内で、無事帰還したといいます。 妙国寺境内の奥には大きなソテツがあり、織田信長が安土城築城後にその見事なソテツが欲しいと、妙国寺から安土城に移植しましたが、そのソテツが夜な夜な帰りたいと泣くので、信長が切り付けたところ、その傷口から血のような液体が流れ出て、不気味に思った信長が、元へ戻せと命令し、今のところに戻ったと言われているソテツがあります。 妙国寺を出て10分足らずのところの興覚寺に寄りますが、この寺院は大和郡山藩藩主の筒井順慶の末裔の菩提寺となっている寺院です。 徳川家康の家臣でここに逗留していたのが穴山梅雪で、梅雪は本能寺の変後に京に登り、その後に落武者狩により、撃たれています。 寺院を出て堺市役所前を通り、大山古墳を目指します。 大山古墳に近づきますとほんの少しの坂があり、この坂を初霜坂といい、その上には大山古墳の外堀で唯一の排出口があります。 大山古墳の外周の約6分の1ほどを回った所の、拝所に行きます。 日曜日とは言え、世界文化遺産登録がほぼ確実になったこともあり、今までの観光客の何倍もの人が訪れていました。 ここ大山古墳は、学術用語では「大山古墳」、宮内庁は「仁徳天皇陵」(正式には百舌鳥耳原中陵)、堺市は「仁徳天皇陵古墳」と称しています。 大山古墳を出て大山公園をぐるっと回った所にある堺市都市緑化センターに向かい、11時30分頃から昼食です。
堺市都市緑化センターを出て大山公園を縦断して、大山古墳の陪冢の収塚古墳を見て、後円部にある外堀取水口に行きます。 この後、三国ケ丘駅から南東に歩き、途中から西高野街道に入り筒井家住宅を目指します。 西高野街道に面した広大な敷地を有する筒井家は、茅葺屋根の家屋、大阪府下で最も古い(推定樹齢1,000年以上)楠木、御廟表塚古墳が敷地内にあります。 本能寺の変時に家康の遠江帰還に尽力した筒井家は、その後、大阪夏の陣が終わったあと、幕府の役人高西夕雲(こうざいせきうん)から新田開墾を任され、現在の夕雲町周辺の開墾に尽力しました。 その後、幕府役人の名前を取り「夕雲開き」と呼ばれるようになり、現在の夕雲町となりました。 その他の新田開墾に際しても、大小多数の古墳を避けるように開墾し、近年の都市開発が始まるまでは、100基以上の古墳が残されていました。 まもなくユネスコの世界遺産登録に関する会議が行われ、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されることでしょう。 そして歩いて数分の所にある金口公園が本日のゴールで、一人の脱落者もなく、一斑全員が ゴールしました。
第2回はこのメルマガが発行される直前の6月8日(土)に、狭山池から廃金蔵寺に祀られていた仁王像を訪ねるコースです。 第3回はちょっと日時をおいた9月14日(土)に、奥河内の初秋の棚田などを巡るウォークで、南海高野線美加の台駅から同三日市駅までの約9kmのコースを、ガイドさんの説明を聞きながら歩きます。 参加希望者は、8月13日(火)~9月3日(火)までの間に、往復はがきで申し込んでください。 送り先:〒586-8501河内長野市原町1-1-1 河内長野市役所 産業観光課内 かわちながの観光ボランティア倶楽部 行 記載事項:代表者の氏名・住所・連絡先電話番号 同行者全員の氏名 返信用はがきの表面に、代表者の住所・氏名を書いておきます。 参加費:一人 500円 9月14日ならまだまだ暑さが残っているかもしれませんが、山間の棚田を見て、山間を抜ける初秋の風を感じてみませんか。